今日は何となく、「後継者」という言葉について考えてみたい。
現在の会社には、正規雇用に限定すると、社員がおよそ10名ほど在籍している。(規模にもよるが、塾によっては数名以下のこともあるので、流石に個人塾では無いかと)
―その中で、立ち上げ時の役員を除くと、実は”僕以外”の社員は、学生時代から大学生講師として勤務し、そのままそうなっているという背景がある。
一方で、僕はどこから来たかというと、不思議な縁を経てからの紹介だ。それがあって、面接を受けて、結果入社に至っている。
いわば、会社内で長年醸成されてきた、独自のイズムを経験することなく現職に就いている。だから僕は、一つの事実として「自分は外様である」と認識している。
関ヶ原の戦い後に徳川家に仕えた外様のような感覚が、僕の中には存在している。これ自身、ただの自意識過剰と考えて唾棄しても良いのだが、どうにもそうできなかった。
こうした立場だからこそ、短期間で追いつき、追い越し、そして文化を意識的に吸収していこうと強く向き合ってきたが・・・。
結果どうなってきたか。頭でっかちになってきたので、ここから本題に入っていこう。
染まらない自分を俯瞰してみて。
時間が経つにつれ、気付いたことがある。僕が体現したい価値観・塾というのは、会社で長く共有されてきたそれとは、どうやら異なるということだ。
企業理念は空で言えるほど暗唱を繰り返して覚えたが、その全てに100%同意できるかというと、自分ならこうやりたいという違和感を覚える項目・施策もある。
―それが意味するのは、僕が今の会社自体の「後継者」ではない、ということだ。改めて自分の考えを振り返ると、やはり自分は「中継ぎ」という意識が強まってくる。
例えば僕は、今の会社を新社長として率いていくといった未来には興味が薄い。むしろ本当に自分のしたいことを探求するには、独立がやはり適していると感じている。
そうした無視できない潜在意識が自分の中にあることは、認めざるを得ない。となれば僕の一つの課題が浮かんでくる。それは、誰に引き継いてマウンドを下りるか、だ。
まだまだ架空ともいえる”僕の”後継者について思うと、現実的な課題が嫌になるほど山積していることが浮き彫りになる。
元々は今年中に引き継ぎを終える計画を立てていたのだが、当時の見積もりや準備の不足により、目標の達成は少なくとも来年以降に繰り越すこととなってしまった。
だが、再来年度の開始時点までには、交代を果たすことを目指している。その頃にはせめてその目星をつけておかねば、そろそろ中継ぎとしての失敗が見えてくるからだ。
ちなみに、引き継ぎの相手として現時点で考えられるのは、悲しいかな、若い世代ではなく、現場を一時離れている10歳ほど年上の上司たちが一番現実的だ。
そのため、いわば大政奉還を目指すことになる、という構図がしっくり来ている。一度泥舟と化した校舎を何とか立て直し、その上でまた先達に返すという矛盾。
「校舎長」という肩書きに特別な価値を感じていない僕にとっては、交代もまた、それを通じて自身の理想の働き方を追求する手段の一つに過ぎないのかもしれない。
・・ここまで考えると、言葉として更新すべきものがあると気が付いた。僕が望むのは「引退」ではなく、むしろ「交代」であるっぽい。
次の世代(それが年長者である可能性が圧倒的に高いのだが)に引き継ぐ準備を進めつつ、良い形でバトンを渡し、一つの役目をキッチリと終えたいと考えている。
そうなった後の先の人生はよくわからないが、だからこそ面白がれるだろうなと、へんなところは腹が据わっている自分が愛しい。
では今日はこの辺で。