精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

頭がいい人の話はなぜそう聞こえるのか、謎が一部解けたのでシェア!!

最近自分の意識が向く対象を、ある程度コントロールできるようになってきてうれしい中元です。瞑想に使う時間、延ばそうかな。

 

さてさて。今日のテーマは、いきなりなんだって話なんですが、やっぱ逆立ちしても勝てない頭がいい人っているじゃないですか。

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その人の頭がいいと思う理由って、単に勉強ができる・できないとかいう次元じゃありませんよね。話の内容とか、論理的な言い方とか、色々あるんですけれども。

 

ちなみに僕がこの人本当に頭いいなって思うのは、一体どこからその情報を拾ってきて、どうやってその結論を出してるんだろうと思わされる方々です。

 

例を挙げると、西村ひろゆきさんとか堀江貴文さんとか、西野亮廣さんといった面々で、その知識量にただただ感心することしかできないですね。

 

そして、何度もその人たちの話を動画やブログを通じて読んだり聞いたりするうちに、「もしかしてこれが理由じゃねえかな」と思う要素に気づきまして

 

今日はその気づきについてお話ししたいと思います。

 

 

 

その気づきをどこで得たかと言うと、すごくたまたまなんですが、家にあったものの積読状態になっていた『論文の書き方』という本です。

 

最近頑張って読んでるのですが、ここにある話の中で、【一次資料と二次資料】って区分が、目からうろこですごく面白いと思ったんですよ。

 

実際の定義とはちょっと違うのを承知で言うと、例えば一次資料というのは、アンケートや計測によって得たデータみたく、一切加工がされていない状態みたいなものです。

 

言い換えれば、そのものに対して誰の考察や感想も付随していない状態とも言えますね。

 

一方二次資料というのは、そこから得た考察をまとめたものっていう感じです。例えば『アンケートの回答を見ると、こういう結果が考えられます』的なものですね。

 

料理で言えば、一次資料とは【材料】であり、二次資料というのは【調理された結果(≒料理)】というふうに考えていただければ、イメージとしては近いかなと思います。

 

さて。僕が思うすごく頭がいい方々の特徴っていうのは、実は二次資料を”発信している”人たちなんですよ。

 

つまり一次資料のデータの部分を基に、「こうじゃないですか?」という結論や仮説を出すことができる人たちって言うことです。

 

データの集め方は、Googleで調べたり、自分で体験したり、あるいはその道のトップの人たちに直接聞いたりと様々ですが、それを全力で集めている点は共通しています。

 

こういうのが、話を聞いててめちゃめちゃ面白いな!!と思う人たちの特徴なんですね。

 

・・・一方、お前が言うなというのは承知ですが、「なんか言ってることが薄いなぁ」と思ってしまう人たちが発信しているのって、いわば三次資料ばかりなんですよね。

 

それはもはや二次資料に対する感想や考察という感じで、「〇〇に~って書いてあった、言ってた、やっぱ不倫とかやーね」ってのもいわばこれです。

 

料理で例えて言うならば、料理名だけを延々としゃべって、【料理のことわかってますよ、どうですか俺賢いでしょ】っていう雰囲気を出してくるタイプですね。

 

何か喋っててあまり面白くねえなっていう風な感想を抱くときって、テーマに興味がない場合もありますが、だいたいその三次資料的な事を言ってる人達なんですね。

 

つまり上澄みばかりを語っているも同じなので、その料理のレシピはもちろん、ルーツやそれに込められた裏話、作る際のコツなんかも知識として存在しない

 

ーこういう方々は、その語る内容に特徴があるんですよ。その情報の出処が誰かの話とか本の記述とか、つまり二次資料だらけなんですね。

 

なっかなか一次資料にあたる話が出てこない。その際は、『それの元データってなに?』といった質問すると、思い切り崩れることもあるほどです。

 

・・・ちなみにこれには、すごくわかり易い理由があるんですよ。二次資料を最初から当たる方が、極めてラクだからです。

 

僕自身もよほどのことが無い限り、二次資料に当たる事の方が当然多いです。そっちの方が頭使わなくていいから楽なんですよ。

 

大体の事柄っていうのはですね、わざわざ一次資料を考えなくていいんですよ。ガチの研究者だけが、それを当たればいいというハナシなので。

 

しかし、社会的な問題となっていることや、そもそもなぜ二次資料の考察がこうなっているのかを知るためには、一次資料をつかむ必要が出てくるんですね。

 

ただし、かがくのちからってのはすげーです。この一次資料はありがたいことに、大抵の場合検索すればすぐポンと出てきてくれます

 

ただ、出てきてはくれますが、そこから何かしらの情報に共通点や考察を見つけ出すのは、はっきり言って結構難しいですし、僕も正直得意じゃありません

 

大学の時に一瞬そういう資料の読み取り方の授業を受けた気がするんですが、その頃の記憶はきれいさっぱりありません。

 

なので僕自身もこの辺はまだまだ勉強中なんですけれども、とりあえず気になるテーマがあった時は、自分なりに一次資料や、ソースが充実した二次資料を探します。

 

時間が許す限り論文を参照したり、グラフなどのデータがまとまったものを見て本当にその結論で正しいのかなという風に考えたり、ですね。

 

ということで基本的に頭がいい人は、一次資料から取り出した二次資料を発信してるよね、ってのが今回の気づきです。

 

もし自分なりのオリジナリティを持った情報を伝えようと思うのならば、かなり難度は高いんですけども一次資料を自分なりに解釈する練習をオススメしたいと思います。

 

尚、別にそうやってデータを考察しなくても、自分の経験や体験を語れば、勝手に一次資料を使った二次資料になるので、そっちの方が手軽ではあります。

 

逆に、芸能ゴシップとか人からの又聞きをただただ並べ立てて賢いアピールされると、ちょっと僕としてはこの人とは酒飲みたくないなっていう感想を抱いちゃいます。

 

それはそれで楽しいって人もいますし、その辺は個人個人で好きにしていただければと思うんですよね。カタい話が嫌いな人も当然いますから・・・。

 

あ、そうそう。念押ししておきますが、僕は全くもって二次資料反対派とかヘンなヤツではないので、よろしくお願いします。

 

原典を読み取ることが困難であるならば、二次資料に頼るしかないワケで、その存在そのものは極めて大切で有益なんですよ。

 

例えば源頼朝について調べようと思った時に、古文書とかを今更読もうと思っても無理じゃないですか?

 

その場合は、それを現代語に訳してくれた資料を当たる必要があるのですが、それは広義の二次資料となります。

 

こういう例を考えても、僕はむやみに二次資料そのものを否定する気はありませんし、そういう極論を今回話したつもりはありませんので、よろしくです。

 

では、今日はこの辺で。

 

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