最近は、超絶錆びついたライターを、元のクオリティ以上に直してしまう動画がお気に入りでずっと観てます。
どうでもいいのだが、多分年齢がまだ若造なのもあり、休憩中はよく生徒に話しかけられる。
大抵は他愛もない話だが、時折「ほぅ」と思うような質問も飛んでくるから、この時間は結構面白いので好きである。
例えばこないだは、「おにぎりとおむすびの違い」を急に尋ねられて、即Google先生に相談するハメになった。(ちなみに定義を一言で言うのは無理ゲーらしい)
ちなみに僕は、かなり意識して、こういう質問を無下には扱わないようにしている。「アホなこと言わんと・・」というテンプレ文句は敗北宣言だとさえ考えている。
今日はその理由と、結果僕がトクしていることについて書いてみよう。
好奇心だけはへし折ってはならない。
子供が勉強に取り組む際に一番大事なのは、好奇心だと言われる。そして僕もそれに納得する。
もちろん数的処理能力とか、言語機能とか、かたっ苦しいスキルも大事になってくるが、それはあくまでテストで点を取れるかどうかの次元の話だ。
強烈な好奇心(或いは使命感)は、学習障害さえも超えていく。ディスレクシアを公表しながら飛びぬけた結果を出す人の顔ぶれを見ると、つくづくそう思う。
ー逆に言えば、学習に対する好奇心をへし折られた子供は、どんなに優れた脳を持っていようと、それを使わなくなっていくとも考えられる。
好奇心をへし折ることは簡単だ。素朴な疑問を頭から叩き折ればいい。それだけだ。疑問を持つと、精神にダメージがあるとすぐに学び、きっと何も言わなくなる。
・・しかしこれも、裏と表。好奇心を大事に育んで、疑問を解決させるという経験を”こちらが”積ませてあげられれば、それが報酬となって学びがどんどん加速する。
時たま驚くほど低い年齢で数検や英検、漢検を突破する子供がいるが、あれらはおそらく、好奇心が報われることの虜になった、最たる成功例だとさえ感じる。
だからこそ、好奇心を無下に扱うことはあまりにもリスクが大きいし、チャンスを木っ端みじんにしているのと同義なのだ。
理想としては、その質問に答えられればそうすればいいし、知らないのなら調べてあげればいいだけである。実験で再現しても、もちろん面白いけれどさ。
それが加速してきたら、独り立ちの時期だ。本なりYouTubeなり、情報を得るための方法を教えてあげれば、多分あとは勝手にガンガン勉強する。
好奇心をへし折って悲しい結果になった子も、それを大事にしてもらった結果かなり上の方まで昇った子も、僕は両方知っている。
だからこそ、好奇心を無下に扱うことは、絶対にやっちゃだめだなと強く感じている次第である。
ーそれに、この好奇心に乗っかることは、実は質問された側もトクをする。続いてはそれについて説明しよう。
錆びたアンテナを直す術。
大人になると、問題を解く力もそうだが、問題に気付く・探す力の方が大切だと言われる。学校のテストと違い、問題を用意されることさえ減ってくるからだ。
何をすれば、今の状況は良くなるのか?といった問いを持ち、仮説を思いついたら、解決策を考えていく。思考力をシンプルに言うとこういう話である。
しかし、こういった力はいつの間にか錆び付いていくようで、世の中に対し何も疑問を持たず、言われたことは鵜吞みという人は、決して少なくないという印象だ。
ではどうすればこの力を磨けるのか?実は、プロに学ぶのが一番手っ取り早いのだ。そのプロとはだれか?周り全てが未知である子供たちである。
彼ら彼女らが疑問を持つポイントは、本当に見事だと思う。大人になろうが、周りは未知だらけであるということを、純粋な目線で僕に教えてくれるのだ。有難い話だ。
最低賃金は上がった方がトクなのか?ワクチンってそもそも何なのか?少子高齢化を食い止めるには子どもを増やせばいいんじゃないの?
ー無邪気だけど、説明するにはかなり難しい問題を何度も受けることで、実は僕もちゃっかり賢くなっている実感があるほどだ。
テストの点は知らないが、10年前の僕よりも、今の自分の方が1.5倍は勉強できている。それくらい生徒がくれる質問の効果は大きいのだ。
そういうのを「勉強せい!」と拒絶する講師の存在はたまに話を聞くが、なんで講師をやっているんだろうかと不思議になる。
意味不明だとさえ思う。質問されるのが嫌ならこの仕事は向いてない。
・・・最後は少しそれたけれど、こういう思いとトクがあって、僕は好奇心にはほぼもれなく真正面から受け止めるようにしている。
ま、「彼女つくらんのん?」というプラベな質問は、流石にスルーしてるんですけどねー。
では、今日はこの辺で。