お盆休みが近いです。しかししれっと、他の人より1日短くなりました。定額働かせ放題プランの中元です(*^-^*)
さて。僕は自分の授業中であっても、例えば演習中などで手持無沙汰の時には、周りで行われている個別授業に聞き耳を立てるようにしている。
単に面白い話は自分も聞きたいし、パクれそうな指導法があったらパクりたいし、そして釘を刺したいことを言っていたら刺したい。それだけだ。
そして特に意識をグッと張って聞くようにしているのが、【ミス】に対するアプローチである。
例えば、数学の公式を言い間違えたとか、英語の単語の意味を別の取り方で伝えたとか、そういうことだ。
なぜここを傾聴するのか?ハッキリ言って、ここに対するアプローチを間違えると、信頼を全て失うからである。その影響は、ひいては組織全てに波及する。
今日はそないなお話である。
間違いを認めないのは二流。
昔僕もやってしまいこっぴどく叱られたのだが、ミスを認めないのは二流である。
例えば以下のフレーズ、皆様もうっかり使ってしまったことはないだろうか。
「(公式を言い間違えて)あぁ、この場合か。別のケースの使い方を当てはめちゃったわ、気にせんといて。」
「(教科書と全然違う訳をとって)んー、こっちで言うのも悪くないから・・。今回は教科書に合わせとこうか。」
といった感じで、ミスをしながらそれを認めない姿勢は、どうしても不信感につながってしまう。
もちろん些細な間違いなら別に取り繕うのもありだと思うが、解答も手順も間違えていたとあれば、もはや【繕う】のレベルではない。
思いきり穴の開いたセーターを編んで、「まぁこっから首や腕が出せるからいいよね」と開き直る感じに似ている。それはちょっと、無いわ。
「間違いを認めたら信頼を失う・・」と恐れる気持ちもわからなくはないが、取り繕った方が思いきり信頼を失う。気を付けてほしい。
三流は間違いを正解だと言い張る。
続いては、やってるのをみたら思いきり叱り倒した方がいいレベルのことを言う。それは、間違いを正解のように伝えることだ。
もはや論外のレベルなのだが、こういうことは数学よりも、国語や英語と言った解答の自由度が高い科目で起こり得る印象がある。
例えば国語の記述においては、「似たことが書けていればいい」とは確かにその通りだが、「似ているのか・別物なのか」の判断は、実はかなり難しい。
すごく雑に言えば、「中元は独身だ」という命題が真なら、「独身じゃなければ中元じゃない」も真だよね、というのが理解できないと、採点は無理だ。
しかしそれすらすっ飛ばして、単語の意味も適当に解釈し、訳もまるで違う・・というのをあたかも正解のように伝える場面に出会ったら、その場で僕は怒ると思う。
幸い今のところ、実際の現場でそれを聞いたことはないのだが、こんなことを容認していたら塾そのものの格を疑われるので、ご注意いただきたし。
余談:では一流講師は何をするの?
最後に参考がてらの紹介だが、一流講師は間違いに対してどんなアプローチをするのか。
もちろんミスをしないのもプロの条件にはなるだろうが、人間やはりケアレスミスは時にやってしまうものだ。
ただ、生徒の評価も高く、尊敬も集める講師は、その場合においての行動が不思議なくらい似ている。
間違いをすぐ認めて、謝るのだ。そしてその問題が自分の手に負えなければ、持ち帰って、調べて、次回きちんと説明する。
つまり、嘘をつかないというのを自然に、かつ徹底してできるというのが、僕がみて「一流やな・・」と思う講師の共通点である。
ぶっちゃけ当たり前と思われるレベルの事柄ではあるのだが、当たり前だからと言って実行が簡単かと言われれば別物だ。
例えば以下のエピソードを読むなどして、「認めること」の潔さとかっこよさと、そして有益さを確認するところから始めてみるのはどないでしょう。
僕もまだまだ修行の身である。というか、修行が終わるときってのは勘違いで自分を洗脳し終えたときか死ぬ時だと思うので、修行中がずっと続くのが正しいのかも。
最後のはちょっとしたボヤキだが、今日はこの辺で。