悲観的でもなんでもなく、舵取りを間違えたりちょっとでも傲慢になったりすれば、僕は今の校舎をすぐにでも潰すと考えている。
どこにいても、なにをしてても、僕が気になることは今のところただ一つ。「明日この塾は、世の中に必要とされているか?」だ。思考はすべてここに向いている。
もはや「在り続けること」は当然なのではなく、努力と奮闘の結晶なのだと今は強く自覚している。そして今、僕にはその覚悟が足りないのではないか、と。
その覚悟をどうやって生むか。ここで、そのヒントになり得る、僕が大好きなドリアン・イェーツというボディビルダーの、脳筋過ぎる名言を紹介したい。
今見知らぬ男がドアから入ってきて、君のこめかみに拳銃を突き付けてきて「あと二回やれ」と言ったらどうする?
死に物狂いでやるだろう?追い込むとはそういうことだ
―覚悟というのはゆっくりと頭で決めていくのではなく、死のような強制的な終了を強く自覚することが、その核として必要なのではないか。その端的な例だと言える。
とはいえ、死を想像することもまた、あまりにもお粗末な模倣になるだろう。なぜなら、実際に死んだことは無いのだから。しかし、組織の死なら、想像できる。
だから僕は腹を括りたい。そう思って、意を決した。【死亡前死因分析】に、腰を据えて挑もうと誓ったのだ。
今日はそんな、コップの中の嵐みたいな話を書いてみる。
【死亡前死因分析】を整理する。
元々は【楽観バイアス】に対応しながら未来の計画を練る際に使う手法らしいのだが、その問い掛けの起点はすごく興味深い。
1年後、今取り組んでいることが最悪の結果になると仮定し、そのプロセスを全て洗い出すというものだ。
その際、面白い注意点があった。それは、「曖昧」な分析を差し挟まないというものだ。
各メンバーが、「スプリントを失敗させた理由」を挙げる。「Aが起きたために、Xになってしまった」のように、すでに起きてしまったこととして話す。
「かもしれない」「可能性がある」などの「予測」的なワードは使わない
曖昧さを入れないのはなぜだろうか。自分なりに考えたが、「かもしれない」を入れると、後知恵バイアスが邪魔をして、ただの後悔がノイズとして混ざる気がした。
それも踏まえて、簡単にやってみる。僕にとって1年後の最悪のプランは、実を言うと倒産ではなく、それがほぼ確定する人数にまで規模が縮小することだ。
僕の人件費、テナント代などを加味して、最低利益を考える。それすら下回る人数をシビアに計算する。それをここに明記はしないが、数値として自分に突き付ける。
そして、それに”なった”として、その理由を考えていくこと。これが死亡前死因分析だ。だから、改めて自分に問う。
「1年後、この校舎は損益分岐点を下回る人数に落ち込む。そのストーリーはどんなものか」
前提がここなのが怖いが、そうすれば具体的なストーリーはいくらでも浮かんでくる。頭に立ち込めるまま、全てここに書き殴っていこう。
①退塾が次々と発生する。その原因は、成績向上が達成できないこと、ケアの面が手薄なこと、そして講師の質が悪いという評判が立ったことである。
②新規問い合わせが得られない。その原因は、他塾の広報に負けて、自分たちのウリが発信できなかったことである。また、強みを言語化できていないのも要因である。
③無駄な支出を削れない。固定費用と人件費を弛ませたままにしていたせいで、赤字率が増えていき、カバーできなくなったことが原因である。
④新しいコンテンツの開発ができない。変化を拒否し、現状にしがみついてしまい、泥舟に変わるのをただ待つだけになっていたのが原因である。
⑤組織内に閉塞感が充満し、やり直そう、取り戻そうという機運が生じなかった。斜陽という感覚をリーダーあるいは上司が発していたのが原因である。
⑥何より、校舎長が外部に原因を求めて、現状に屈服した。ここが諸悪の根源であり、上記のいずれも、これを球根として成長した草花に過ぎない。
・・・というところだろうか。これはあくまで雑多な例を並べただけに過ぎないのだが、これをきちんとコーヒー豆みたいに挽いて、抽出すれば、シンプルな計画が立ち上る。
退塾を出さず、新規問い合わせを安定して獲得する。人的・金的問わず、無駄な部分を徹底して削減し、新しいコンテンツを考え続ける。
閉塞感なんてクソ食らえ、校舎長が率先して自分に責任を負いながらも、あれをしようこれをしようと夢を語っていく。
逆に言えば、これを潜在意識では「できてない」「やってない」と気づいているからこそ、こんなに苦しいのかもしれないとも感じ取れた。
もちろん、これらはまだまだ、まるで具体的ではない。目的であって、手段がまだ考えられていない。これらはそもそも、データが全く足りていない。
今パッと閃いた手は、2つある。1つ目は、よその中小塾がやっていて、うちの塾がやっていないことを全て、徹底的にパクること。
もう1つは、業態が似ていると感じるフィットネスジムの手法を転用できないか、探り探り模索することだ。
これらはその気になれば、探してきて試すだけであり、僕のフットワークだけが課題となる。支出も特に要らないだろう。
1年後に潰す未来に至る道は見えた。だからまず、それを避ける。避けた先に正解があるかはわからないが、見えている道を辿るのはただ愚かなだけだ。
自分で自分の心臓に刃を当てる。いい緊張感を取り戻せたと思う。
では今日はこの辺で。