精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【同業者向け】基本の所作の練習が”面白く”なるのは、キャリアを積んだ後っぽいです。

今日は同業者向けの話に特化した内容になるが、こないだ起きたちょっとしたことについて書いてみたいと思う。

 

折しも、久しぶりに自分の授業を他の人に添削してもらう機会があった。僕としては前回のときに思うことがあったため、そこまで作り込まず、普段通りの授業を行った。

 

その結果が返ってきたのがそれから2週間後のことだったが、その中に一つ、非常に辛辣なコメントが並んでいる物があった。

 

いわば、良かった点ではなく、ダメだった点だけが並んでいるようなアンケート。言葉を選ばずに言えば、僕のアンチから貰ったコメントと同じである。

 

そのコメントを見ると、例えば「説明が単調で抑揚がない」という指摘があった。これ自体は真摯に受け止めるべきであり、ただの弱点なので、謙虚に認めるしかない。

 

自分がどう思うかは関係ない。主観は結構いい加減だ。少なくとも”人から見たら”、僕の説明は単調で抑揚がなく、眠気を誘発する物と考えるくらいがいいだろう。

 

てことでこのコメントに、自責の念を織り交ぜないよう留意しつつ向き合ってみたのだが、その最中にふと、過去抱いたことがなかった感情を抱いた。

 

てことで、ここからがそれについての本題である。

 

 

基本の所作の練習が”面白く”なるのは、キャリアを積んだ後っぽいです。

 

駆け出しの頃、塾講師としてバックボーンが皆無だった僕は、板書の作り方は勿論、立ち位置、声の大きさ、リズムなどを、割とスパルタな感じで叩きこまれた

 

そのときの強迫観念がややトラウマになっており、黒板やホワイトボードの真ん前に立っていると、不快感を覚えるほどである。だから基本、隅っこに立つことが増えた。

 

その時期も、「説明にメリハリをつけろ」とか、「喋り方そのものを工夫しろ」という禅問答みたいな助言は数多く受けていたし、自分なりの研究も勿論重ねている。

 

TEDの技術を解説した本も読んだし、映像授業を何本も観て、所作を学んだ。だが改めて今回、「単調」という指摘を受けて、自分の語りには見直しが要ると悟った。

 

とはいえ、「説明」を磨くためのインプットを最近してきたかと言われれば、ギクッとする思いがある。内容ばかりに目を向けて、伝え方自体の研究はお粗末だったからだ。

 

つまり、自分の説明が単調にならない工夫やメリハリ、テンポについての勉強をサボっていることに、このアンケートで否が応でも気づかされたというのが本当のところだ。

 

元来、僕はゆっくり喋る、淡々と喋る癖があるようで、放っておくとその癖に戻ってしまうようだ。それを食い止めるには、意識と練習がマストになる。

 

抑揚やリズムを、技として改めて学び、身に着けて、再現する。恥ずかしながら盲点となっていた箇所を忌憚ない言葉で知ったあの場は、その意味で非常に有益であった。

 

ならばと改めて学んでみると、不思議なことに、自分に面白い変化が起きていた。こういう基礎基本の所作を深めていく時間と勉強を、面白いと思えているのだ。

 

具体的には、曲がりなりにもキャリアを8年目ぐらい積んだ結果だろうが、抑揚やテンポ、通る声について言語化してくれた本を読んだ際、気付きが凄く増えたのだ。

 

「抑揚とは本来こういう意味なんだ」という発見もそう。そこから転じて、「じゃあアナウンサーや声優、落語家の技も参考になりそうだ」という仮説もそう。

 

知恵も経験も無い初心者の頃に学んだときとは違う点が、今の自分には引っかかる。この一つ一つが、講師としての基礎基本を見直し、洞察する貴重なきっかけである。

 

講師としての僕はやっと、【熟達論】の【観】の段階に至ったということか。【心】に至る日はいつなのかわからないが、未来があるのはそれだけで心の支えになりそうだ。

 

・・・ところで、特に同業者の方々にお尋ねしたいのだが、最近、授業における基本所作の勉強はされましたか?

 

黒板に対して、どこに立てばいいか。説明と演習時間の比率や配分は、どうすればいいか。抑揚や間、テンポや滑舌をコントロールしながら話せているか。

 

僕は正直、さっきも書いたがコンテンツばかりを磨くのに執心してしまい、そういった”伝え方の工夫”が知らない間にすっぽりと抜けていた

 

だから改めて伝え方自体の土台を崩して立て直すような時間を取っているが、これ自体が凄く学びに富んでおり、すごく面白いのだ。それは、ここで念押ししておきたい。

 

授業の上手さは、内容は勿論、伝え方にも大きく左右される。しかし僕らは最初の頃は、伝え方ではなく、伝えるものを練り上げろと、大体は教わるものだ。

 

中身のない薄っぺらい教えは、いくら上手に伝えたところでペテンである。そういう側面があることは、僕自身認める。伝え方の優先度が下がるのは致し方ないだろう。

 

しかし、経験が伴って伝える内容自体が充実してくると、ここでやっと、伝え方の勉強がどんどん響いてくるフェーズとなる。

 

講師としての僕は、落ち目とまでは言わないものの、ピークを過ぎたと思っていた。今も正直思い込んでいる節はあるが、そのもやもやの突破口が見えたかもしれない。

 

改めて皆さんには、この謎のエピソードを通じて、ある程度歴を重ねた後で基本に立ち帰ることというのは、決して無駄ではないということをお伝えしたい。

 

ということで今日はこの辺で。

 

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