本日もまた、「感情」に関する記事を書いてみたい。というのも、完全に偶然ではあるのだが、またそれに関して新しい発見があったためだ。
具体的に言えば、認知行動療法などでよく言われる「受容」の意味が急に理解できた、という話になる。もちろんそれ自体勘違いの可能性もあるのだが、納得感は強い。
今日はその記憶や手応えが完全に霧散してしまう前に、割と慌てて記事に書こうという、そんな内容である。
学びと体験が繋がり、違和感を飲み込めた瞬間。
ネガティブな感情が生じたときは、それを無暗に否定したり無視したりせず、まずは受け入れることが重要だとされる。言葉の意味は分かるが、実践は非常に難しい。
ただ、これはメンタルを安定させる方法として、あらゆる哲学・心理学・研究で繰り返し登場する、いわば超基本的な思考とも称せる構え方なのだ。
勿論この方法自体は以前から知っていたが、その言わんとするところが、どれだけ考えても、あらゆる思想に触れても、なかなか腑に落ちなかった。
例えば「脱フュージョン」の手法を使い、感情に点数をつけても、それを冷静に振り返っても、相変わらず心の中では湧いている感情が暴走し、鎮火する気がしなかった。
それもあって、自分の感情を受け入れて認めることは、僕にとって本当に役立つのか、ずっと疑問に感じていた。あらゆる本で紹介されているだけに、もやもやは募る。
だが、今日ふと、その存在を思い出した。きっかけは、仕事でミスをしてしまった際、それによって自分の心が動揺しているのを自覚したことだ。
普段なら動揺そのものを否定したり、過去の経験を引き出して「大したことない」と納得しようとしたりすることで対処していたが、その効き目はまるで無かった。
となれば、そろそろ手段を変えるべきだ。そう思った際に閃いたのが、「脱フュージョン」、もとい自分がその感情を抱いていることを認識する、というものだ。
以下ただの脳内談義なのだが、プロセス自体が参考になればということで、そのまま書いておく。
まず、「自分は今動揺している」ということを認めよう。では、”動揺”という状態には、どんな感情が隠れているだろう。じゃあ次は、それを分解してみるか。
不安はある。悲しみはない。驚きは、ちょっとあるかも。嫌悪感はどうだ?これも少しはありそうだ。3種類以上の感情が未分化のまま混ざっているのかな。
ところでこの不安は、身に覚えがあるな。わかった、今回の構図が、過去のクレーム対応のトラウマを薄く蘇らせているんだ。いやー、あれは振り返るとクソだったなぁ。
となれば、僕が動揺と称したこの感情は、ただ過去の嫌な記憶が、ほんのり憑依しているだけなのかもしれない。即ち、現在ではなく、過去の嫌悪に揺さぶられている。
・・・ここまで自己分析を進めると、気持ちがかなり楽になっているのに気付いた。ネガティブ感情がふっと消えて、目の前の景色、音などに、自然と意識が向いたのだ。
そして、副産物はまだあった。ミスそのものへの注目が消えて、他の対象へ自然と興味や思考が進んだのだ。
例えば、「他の人は、”動揺”をどんな感情と定義しているんだろう」とか、「3種類以上の混合感情ってのは無いのだろうか」ということが、今は気になり始めている。
これには素直に驚いた。感情を受け入れ、分析を進めることで、本当に心が落ち着いたからだ。経験としてそれを得た以上、その効果は納得するしかない。
すると、また新しい問いが立つ。なぜ感情を受け入れることが、心の平穏を生むのだろうか。そしてそれについての考察を深めていくと、ある閃きが生じた。
その閃きは、この1年弱にかけて自分が取り組んできた学びや体験、意識付けの全てがバチっと繋がり、突如として脳内に現れたかのように思われる。
では、その閃きとはなんなのか。割と興奮しながら、なるべく冷静に言語化していこうと思う。
「感情を受け入れる」≒「受容する」≒「脱フュージョンする」≒「切り離す」。
”動揺”を初め、自分がネガティブな感情に囚われていると思った際、生じている感情はほとんどの場合【不安】である。地の性格だろうが、怒りなどはさほど生じないのだ。
そして【不安】を覚えている際は、「未知のもの」に意識が向いているとされる。つまり「未知への興味」という意味であるなら、好奇心と不安は表裏一体なのではないか。
未知のものに対してポジティブな感情が向けば好奇心となり、ネガティブな感情が向けば不安になる。そう考えると、正負が逆なだけで、実は同じ気持ちなのかもしれない。
ここで、少し不安を脇に置いて、好奇心を起点に考えを深めてみた。好奇心は、満たせば消える。では、好奇心を満たすための方法は何があるのか。
それはすごく簡単で、自分が知りたいと思っていることを、知りさえすればいい。探求のパラドックスみたいだが、探求の対象が分かれば、それで事足りてしまうのだ。
そして、「わかってしまえば消える」という意味では、やはり不安も同様だと気が付いた。不安とは未知へのリアクションで、既知にしてしまえば自然とそれは消え去る。
ここまで掘り下げていったとき、自分の中で全てが繋がった。まず感情を受け入れ、目を背けずにむしろ言葉にしていくことで、その感情の正体、理由が明確になる。
言葉にすることでハッキリと認知・認識すれば、感情が未知のものではなくなるため、不安はスッと消えていく。否定してばかりでは至れない場所が、受容の先にはある。
ずぅっと理解に苦しんでいた「受容」の凄さが、心の底から理解できたように思う。多分読んでいるあなたを完全に置き去りにしているが、僕は素直に感動している。
そう思えば、今日のうっかりミスは決して無駄ではなく、感情の観察において新たな知見をもたらしてくれたという意味では、むしろありがたい時間になったと言える。
感情の観察は折に触れて続けたい。しばらく僕の興味も好奇心も、尽きることがなさそうだ。では今日はこの辺で。