今日は片頭痛発作の2日目だ。頭痛がかなり和らいだが、次のフェーズである、熱が出ていないのに高熱のときのように身体がだるく重い、という症状が出ている。
幸い、薬が効いて、頭がズキズキして辛いという感覚は無い。しかしながら、とにかく怠く、集中も深まらず、背中なども筋肉痛があり、すなわち良くない状態だ。

本来、こういう時は早退や休養を取るべきだと我ながら思うのだが、自分の中の変な「マッチョな部分」がその決断の邪魔をしてくる。
例えば、「仕事を休んで迷惑をかけるわけにはいかない」とも思うし、「そもそも自分の代役を立てたら人件費が掛かる」とも思う。そのため、今も職場に向かっている。
正直、今日は戦力にはならないだろう。普段のパフォーマンスとの乖離を感じると共に、気合でカバーしきれる範疇に無い程、やっぱりしんどい。
こういう時こそ、自分にもう少し優しくしてあげるべきだと頭では分かっている。しかし、優しさが突き抜けて甘えになってしまうという危惧もある。
甘えと優しさ。自愛の境界線を、よく考える。この問いのヒントになりそうなのは、元々は仏教の教えだったかなんかだと思うが、「自愛」の定義だ。
その定義自体が滅茶苦茶深く、凝り固まった心をゆっくりと解してくれるように、時間差で効いてくる感覚も覚えるのだ。今日はその紹介を通じて記事を書いてみよう。
「●●するように、自分を愛しなさい」

だいぶうろ覚えだが、自愛の本質とは、他人に施す優しさや思いやりを、自分にも向けることだという教えがあったと記憶している。
自分が自分に対して何かを判断したり考えたりするときは、主観バイアスから逃れることが絶対にできない。だから過度に厳しいか、過剰に甘いか、そのどちらかなのだ。
仕事を他人に任せたり助けを求めることは、必ずしも甘えではない。だが、自分がそうすることには大抵、言い知れぬ抵抗を覚える。嫌悪感と言い換えてもいいくらいだ。
だから、自分のメタが主観バイアスに囚われた状態で、自分に対して優しい判断をしてくれることは全く期待できない。というより、そもそもするべきではないのだろう。
その構図を考えると、「他者に対する優しさ」を想定し、それをそのまま自分に適用することは、物凄く客観的かつ健全な思考に思えてくる。
たとえば、今の僕のコンディションで職場にいる同僚がいたとしたら、僕はどんな声掛けをするだろうか。間違っても、「顔に出すな!」なんてヤバいことは言えない。
それこそ、「無理せずに休んでくれ」と言うだろう。その上で、その人の仕事を最小限にできるよう取り計らう。ケースが許せば、そのまま帰らせるということまでする。
無理をしたところで、大した成果は生まれない。それどころか、その人自身にも、そして組織自体にも、もっと大きな影響をもたらしてしまうことが想像できるからだ。
例えば、その人がもっと体調を悪化させた結果、長期離脱を余儀なくされたら?体調不良でも一切休ませないブラックな風土だという風評が広まったら?
そう思えば、その人には休んでもらうことこそが、この状況における最適解になる。すごく論理的な帰結ではなかろうか。
そしてその構図は、確実に僕にとっても同じはずだ。つまり僕もまた、なるべく静養に努めつつ、最小限の仕事をし、果たす責任はなるべくミニマムにすべきなのだろう。
流石に代打を立てて早退するということは現実的ではないので、薬で誤魔化しつつ終業まで耐え忍ぶ所存だが、ただケツを叩くより、よっぽど平和な気持ちに至れている。
ということで、再掲する。「自愛」とは、他者に向ける思いやりを自分にも向けることだ。その考え方は論理的でシンプルだが、バイアスも回避できる優れものである。
自分にやたら厳しい自分という存在に自覚があるのであれば、あなたもこれを意識してみるといいかもしれない。
僕も今日は定時退社し、栄養を摂って、しっかり寝ておこうと思う。では今日はこの辺で。