今日はこないだアップした記事の続きみたいな内容を書いてみる。「恐怖」と「好奇心」はかなり近しいという気づきを基に色々調べたら、結構同じ意見の人がいた。
その方々の言葉を参照してみると、面白い考えをたくさん学ぶことができ、また結果として、僕の中の仮説が更新に至ったという手応えがある。
てことで、その記憶が薄れる前に、ざっくりと言葉にしておく。以下、本題である。
すなわち「恐怖」≒「好奇心」と考えて、不都合はなさそうだ。
こないだ自分が考えたことの結論を再掲すると、「恐怖」と「好奇心」は表裏一体である、という仮説である。
未知のものに対して抱く感情がネガティブに作用すれば「恐怖」となり、ポジティブに作用すれば「好奇心」となる。そんな風に考えが着地した。
とはいえこれは僕のオリジナルなんてことは全く無く、多くの人も同じように考えているようだとわかって、ちょっと安心している部分もある。
だが、その人達の言葉の中には、そもそも「恐怖」と「好奇心」をポジティブやネガティブといった視点で分ける必要はないというものもあり、すごく興味を覚えた。
表裏一体という考え方からさらに思い切って、そもそも同じものであるという捉え方をする人もいた。これは言葉遊びとか禅問答に近い考え方だとも言えるけど。
実際、上り坂と下り坂は同じものを指すし、紙の裏と表も、正直言って全く同じものを指す。表裏一体という言葉と何が異なるのか、少しだけ混乱してしまった。
こういうときは辞書を引いて整理するに限る。すると、「表裏一体」という言葉について、少し面白い定義を知ることができた。
一見すると対立、またはへだたっているように見える事柄が、実際は密接な関係にあること。
外面と内心とが一つになっていること。
表に出て活躍している人と裏方にいる人と協力して、一体となっているさまにもいう。
ここだけ読むと、”別々の異なるものが1つになっている”というニュアンスが感じ取れる。こういう風に恐怖と好奇心を捉えると、僕が辿り着いた答えになる。
今風な答え方をするなら、「理解理解」という腹落ち感に至った。一方、それをも飛び越えて、完全に同一だとする意見もあると、さっき書いた。
例えば、一番印象に残ったnoteには、こんな記述がある。先に書くと、僕はこの意見に、ヘッドバンキングのレベルで首を縦に振りたいくらい同意する。
知的好奇心旺盛な人はなぜ沢山学ぼうとするのか、それは知ることが楽しいからではなく知らないことが怖いからである。
考えてほしい、知ることが楽しいのならば自分の興味に付き従って行動すればそれで満たされてしまうのではなかろうか。
知らないことが怖いからこそ自分が苦手としている分野、楽しくない分野に対しても知識を吸収しようという姿勢が現れるのである。
※太字は僕が修飾した
物事を知りたいという強い好奇心は、裏を返せば「自分が知らないものに遭遇したくない」という恐怖から生まれている。僕の学びの源泉も、かなりこれに近い。
僕は自分の知識が及ばないこと、それを指摘されることには、かなりの”恐怖心”を抱く。例えば経済学部を出ているのにそれを説明できない自分を思うと、とても怖い。
だから去年くらいに大学生から使わなくなった大学の教科書を譲り受けて、ミクロ経済学を学び直した、なんて一幕もある。
背景を知ればやや病気のような構図だが、これを好奇心と呼んでも、全く問題はないだろう。段々と、そもそも恐怖も好奇心も同じものという感覚が強まってきた。
―では、これを認識して受容したら、それをどうしたらいいのだろう。意識的にコントロールすることは可能なのだろうか。
恐らく、それは不可能に近いだろう。例えば僕はアシダカグモが苦手なのだが、それを好奇心に転じてクモを勉強できるかというと、多分早々にゲロを吐いてしまう。
しかし、日頃から理性の力で潜在意識をハックするような訓練をしておくと、段々と好ましい方向へ活用することができるようになっていくのかもしれない。
それこそ、恐怖の意識が生じたときは、それは同時に「自分はそこに興味があるのだ」と解釈し直すことができれば、感情を無駄にせず活用できるだろう。
「恐怖と好奇心は表裏一体ではなく、同じものを指している」。しばらくはこれを念頭に置いて、身の回りのことを観察してみようと思う。
では今日はこの辺で。