精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「恐れ」と「不安」を丁寧に紐解くとわかったこと。

今日は何となく、「恐れ」という感情について考えていた。「恐れ」は「不安」と”全く同じ感情である”と混同されやすいが、区別が難しいだけで、少し異なるらしい。

 

僕は日頃よく不安を感じる性質なのだが、今は少し恐怖に近いことを感じる場面が増えているので、これはこれで観察の好機だと思ったためだ。

主観的と言えばそれまでだが、「この子は僕のことが嫌いだろうな」と思う生徒がいる。そして明日、その子にサシで授業する機会がある。

 

これを思った際に胸に湧いてくるのは、「不安」よりももっとクッキリした感じの、「恐怖」といった方が近いという点では、自分の中で納得をしている。

 

しかしここで内省を止めるには、あまりにも勿体ない程の好材料だ。そう思ったので、観察をさらに深めて、思ったことをまとめていく、そんな記事である。

 

 

「恐れ」「不安」を区別して考える。



自分の気持ちを分析していくと、恐怖も不安も、「自分がよく知らないもの」への反応だと感じている。その程度の強弱が、それらを分けているのだろうか。

 

プルチックの感情の輪を用いると、「恐怖」は基本感情の一つであり、そこから遠ざかっていくと「不安」というものが確かに並んでいるのが判る。

 

即ち、恐怖と不安は地続きで、同じものを指す。これが結論なのだろうか。だが気になることに、「感情は、すぐに脳をジャックする」には、違う見解が載せられている

 

恐怖が基本感情の1つという点では同じなのだが、不安が恐怖と期待の混合感情だと紹介されていたのだ。ただ日本語で考えると、”恐怖”と”期待”は相容れない気がする。

 

こういうときは、元々の感情の輪を参照するに限る。ということで調べてみると、期待の欄には「anticipation」という英単語が書かれていた。

「感情の輪」(”Wheel of Emotions”) | 流離の翻訳者 果てしなき旅路

 

僕は確かに「anticipation」を「期待」と訳してきたし、それで困ることは一回も無かった。だが改めて原義を調べてみると、大体面白い発見に繋がるものだ。

 

すると「anticipation」は、こんな意味だと分かった。

 

when you are expecting something to happen

 

何かが起こることを予想している”とき”

 

うーむ。ここだけ見ると、特に何の真新しい発見も無い。”そりゃそうだ”という感じとなる。だが、よくよく読んでいくと、ある閃きが訪れた。

 

それは、全く経験値が無いことに覚えるのが恐怖で、類似の体験・記憶があるものに覚えるのが不安ではないか、というものだ。

 

ある意味当たり前だが、人生で自分を嫌う人と向き合う機会は少ない。だから僕は、その際に自分のメンタルがどうなるか、全く経験値が身体の中に無い。

 

どれだけ指折り数えて記憶を辿っても、過去の糞クレームを思い返しても、自分を嫌っているのが明確な人と相対する経験は、2~3回しかなさそうであった。

 

頻度で言えば、結婚式や葬式、卒業式に列席した回数よりも少ない程だ。33年という人生を通じて2~3回となれば、記憶も相当ファジーとなる。都度初体験も同然だろう。

 

一方、僕が不安を覚えるアレコレは、その手間のめんどくささ、自分の感情がどう振れるか、その辺の部分を”予測”することができる。差異はここにありそうだ。

 

メタの部分ではその後の展開がうっすらわかっているネガティブなこと。それに対して抱くのが不安で、純粋なる未知に対して抱くのが恐怖ということではないか。

 

そしてこれは感情の輪と関係ないのだが、何がトリガーになるかわからないものの、恐怖は物凄く強くて純粋な好奇心に転じることもあると、僕は考えている。

 

「わからない!逃げよう!」ではなく、「わからない!いっちょやってみるか!」と解釈することがあるように。心霊スポットでガンガン奥に行けるタイプの思考だ。

 

とはいえ、繰り返すが、そのトリガーは未だに何の手がかりも得られていない。あくまでも僕が思いついただけというそのレベルの話だ。

 

しかしながら、「怖いものみたさ」といった日本語を起点に色々紐解いていくと、何か見えるものがあるかもしれない。ただこれは、また別の機会に考察することとする。

 

恐怖をどう活かすか。

では改めて、恐怖にはどう対処すべきか。色々考えたが、類似のケースを調査して「不安」にまで薄めるか、いっそ恐怖を好奇心に転じるしかないように思っている。

 

恐怖を好奇心に転じるための方法は、先述の通り全く心当たりがないのだが、僕の場合、仮説を持って物事に当たると、好奇心に変化することが多いと感じている。

 

或いは、”目的”と言い換えてもいい。「モテる」という究極的な目的があれば、「痩せる」ことを目標に、「減量」という手段を採れるのと似ている。

 

この構図を活用して、学びを得たいと思ってみると、一つ面白い実験を思いつくことができた。それは、「サイコパシーの練習」だ。

 

サイコパスは、他人が自分をどう思うかに無関心だという。感情そっちのけで、目的達成のためだけに行動できる。衝突もするが、成果もきっちり得てくるのだ。

 

その思考を練習するためには、まずは感情や思考がブレる状況下に身を置きながら、自分を俯瞰して、客観的に観察する練習が要る。その場数の一つとして、好機だろう。

 

相手の反応に左右されず、「わかりやすい授業」という自分の目的を果たすことを第一に考え、思考・感情をコントロールする。なるほど、いい経験値になるに違いない。

 

そこまで考え込んでおくと、どこかからじんわりと、「安心」に似た感情が湧いてくるのを実感している

 

尻切れトンボではあるが、自分なりの心の整理ができたので、今日はこの辺で終わりにしようと思う。

 

 

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