今日は少しだけイライラしながら記事を書く。
きっかけは昨日の集団授業のことだ。
テストが近い学校とそうでない学校の生徒が入り混じっているため、全体への授業ではなく、各生徒の横について課題をアシストすると言う形をとった。
―そして、僕はそこでの各生徒の取り組み方に愕然とした。
教科書の書写。綺麗に色ペンを引いてのノートまとめ。僕が否定し倒した学習法がそこに蔓延していたからだ。
さすがに僕は手を止めさせて、全体に話をした。
『時間が無い無いと焦ってるけど、それは取り組む時期が遅かったとかじゃなく、やり方の問題だよ?』
『試しに、今一生懸命書いていたもの、ノートを閉じてから思い出してみ?出てこんやろ?それが真実だぞ?』
―という話をしたら、十人十色の言い訳が返ってきた。そしてその内容に再度愕然とした。
『綺麗なノートを出さんと先生に怒られる』
『手を使って覚えなさいってめちゃ言われる』
『書かんと覚えられーん』
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やはりまだまだこの辺の固定観念や謎の神話、言葉を選ばずに言うと洗脳を打破するのは時間と労力が必要そうだ。
今日は、そういう現実を知った僕が、その後生徒にどんな話をしたかを、ライブっぽくまとめてみる。
『書かねば覚えられない』の大嘘。
『書かねば覚えられない』という生徒がいる。それはある程度は本当なのだろう。ただ、大部分は誤解だと思う。
そもそも、漢字の構成とか、数学の公式、スペル以外、『絶対に書かねばならない理由』とは何だろうか?答えを隠しての口頭チェックじゃダメなのか?
読む勉強法をナメてはいけない。人が1個語句だの単語だのを書く間に、見てチェックすればこちらは3~4つのそれを確認できる。
どうしても書きたければ、その語句や答えを頭に入れてからにするべきだ。最初から書いて学習すると、断言するが時間が掛かる割に頭には入らない。
暗記の本質は、一にも二にも反復である。とにかく何度も繰り返してナンボだ。そのためには、掛かる時間を徹底して抑えねば、間に合うわけがない。
書く勉強は最後の最後。最悪ひらがなで書ければいい。デキるヤツは意外と適当なヤツが多いのだ。
テンパってるなら頭の中を整理整頓しなさい。
『侍所と政所の違いって何ですか?』『壬申の乱って何ですか?』『天武天皇って誰ですか?』とテンパっている生徒がいた。
こういう時は、質問に乗る前にするべきことがある。僕は、『ある作業』をするよう、その生徒に指示を出した。
それはおなじみの『筆記開示』。
『5分あげるから、裏紙に今の自分がすべきことを箇条書きして書き出してごらん』と伝えたのだ。
そして5分後。僕はその子に聞いた。
『で、どう?思ったよりやることあった?なかった?』
そして返答。
『全然なかったです』
―冷静になったその生徒は、教科書を取り出し、しばしインプットに集中しましたとさ。めでたしめでたし。
・・・悩みなんてのは、書き出せば思ったより少ない。不安に頭が支配される理由は、何をすべきかわからないというただそれだけ、実体が無いが故なのだ。
箇条書きでもなんでも、文字に起こしてしまえば勝ち。あとはそれを終え次第線を引いて消すという作業にすればOKなのだ。
闇雲に時間を掛けても、貴重なそれを浪費して終わり。急がば回れ、まずは5分程度を先行投資し、やるべきことを明確にするべきである。
どうしてもノートを埋めたいなら、『勉強』をしなさい。
熱心にノートを書いている生徒に、僕は懐疑的だ。それは授業中でも同じ。最近は、僕の説明中にノートを取っている生徒をみると、必ず釘を刺している。
理由は2つある。まず、教科書を丸ごと書き写した結果出来上がるものは、少し汚い字で書かれた教科書そのものだからというのが大きい。
つまり、何の生産性もないのだ。強いて言えば、一種の自己満足感を得られるくらいだろうか。正直他にメリットは浮かばない。
もう1つは、人間にマルチタスクは不可能だからだ。説明を聞くなら聞く、ノートを取るなら取るで、キッチリ分けないと両方中途半端になる。
―とはいえ、まだまだ謎の『ノート点』なるものが闊歩しているという話も聞く。ノートの提出が義務付けられている生徒に挙手をさせたら、ほぼ全員そうだった。
ならば、『無駄ではないノート作り』を心掛けて、同時にノルマをこなすべきだろう。だから生徒に僕は2通り提案した。
まず1つは、『言えるようになった語句を書く際のメモ書き』である。『書く勉強は最後の最後』と先ほど述べたが、その段階でノートを使うということだ。
ノートに書かれるのは、『平等院鳳凰堂、浄土信仰、末法思想』といった語句だけになるが、それでもページが埋まっていくので文句は無かろう。
ノートの意味は本来『覚え書き』だ。その働きに即した使い方をすることに異論はないと思うのだがどうだろうか。
そしてもう1つは、数学の話。『1つの問題に対する別解をまとめる』というものだ。
難問程、解き方は複数存在する。それを『解法』という意味で括り、自分の手数を増やす。そういう繋がりを生むためなら、まとめるのは大いにアリだ。
僕は『全部書く』ことこそ否定するが、『適切な用法で書く』のは推奨する。今一度見直していただきたい部分である。
終わりに。
ということで、少し感情的になりながら記事を書いたら、他のと比べてやや割増の文字数になった。やむなし。
だが、希望もある。ポツポツと、『説明の最中にノートを取るのは無意味』みたいな指導を入れる教師の話を聞くようになったのだ。
その指導の内容もだが、昔からの慣習というそれだけを理由続いてきたことに一石を投じているという意味で嬉しい。その先生とお酒を飲んでみたくなった。
・・・ということで正直読みにくい文章になったと思うが、その分の熱が通じていればありがたし。
それでは今日はこの辺で。