季節講習中は爆裂に忙しくなるせいで、インプット系の時間が枯渇し、すごい罪悪感を覚える面倒な男、中元です。
はい。今日はふと思いついたことについて、書いてみる。薄々感じていたのだが、誰かの説明を文章としてノートに取ることって、きわめて相性が悪いよな、と。
いわば、風景を見て、下描きを経ずにいきなりキャンバスに筆をべたべたやるようなものだと感じている。つまり、色々すっ飛ばし過ぎなのだ。
プロの漫画家だって、まずはネームやラフスケッチという形で、ぼんやりと全体を決めてから清書を始めるではないか。いわんや学生をや、である。
だが「ノートを取るのなんて、何十年もそうだった当たり前の作業じゃん」という価値観のせいか、それに気づいている人ってそんなにいない気もしている。
今日はこの辺の違和感と、どうすればそれを克服できるかということについて、授業の合間の空き時間にダダっと書いてみたいと思う。
完璧なノートを作れる人に、ノートは必要ないという矛盾。
僕は完璧なノートというものに懐疑的だ。完璧なノートとは、「黒板に書かれた文字や色を、正確に紙上へ再現しただけのもの」だと考えているからだ。
それでいいじゃないかと言われそうだが、ぶっちゃけその能力と、その文章や説明を通じて伝えたかった事柄を理解する力は、あまり関係ないのだ。
もし手書きしさえすればいいのだったら、極論教科書を写経すれば、全員偏差値60超えの秀才軍団間違いなしだ。だが現実、そんなことになんて、なりゃしない。
・・しかしそういう中でも、完璧にノートを取りつつ、同時にその知識を吸収してしまう天才も、この世には存在する。現人神のごとく崇め奉られる、彼ら彼女ら。
だが、完璧にノートを取りつつ、その知識も同時に吸収できるということは、単に授業で扱ったテーマが、彼ら彼女らにとって簡単すぎたということではなかろうか。
さっきの例でいうと、風景画をいきなり描けるなんてのは一握りの天才の技だが、棒人間程度なら、いきなりでも描ける人はそこそこ増えるだろう。
超できる生徒にとっては、学校で習うことは棒人間のようなもの。身も蓋もないが、そういう話なのかもしれない。
ノートを取れるようになるまでの練習って?
ということで、美術でいうデッサンだのなんだのに当たる部分を練習しないと、多分なかなかノートを取るのは上手くならないよねという話になる。
しかも、誰かの説明をノートに書いていくのって、実はノートの性質を考えると、相性はマジで悪いのだ。例はさっき挙げたので割愛。
ってことでオススメの練習法は、教科書や解説を、メモを取りつつ読むことだ。(書き写すってことじゃないよ)
例えば、歴史の教科書で、平安時代を読むとする。この際、大事な語句や、意味がよくわからなかった記述だけを、別途ノートにまとめていくのだ。
すると、ノート上には、以下のような言葉しか並ばないはずである。
などなど。ぶっちゃけ、これでいい。きちんと整えるのは、その後の話だ。
そしていったんまとめ終わったら、休憩を取った後で、それぞれの語句の意味や、覚える際のヒントなどを書き添えていく。それがノートまとめの基本である。
語句と語句の繋がりを、文で埋めるという感じだ。例えば「桓武天皇が坂上田村麻呂を征夷大将軍として任命し・・・」という風に。
学校の説明と違い、文字はそこにずっといてくれるので、まとめるレベルは格段に下がる。だからこそ、まずはテキストで練習するべきなのだ。
この冬、学校が完全に止まっている今、練習しておいた方が良いスキルである。
ってことで、尻切れトンボだが、生徒が来たので今日はこの辺で。