精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「工夫」の語源を調べてみると、本来あるべき「工夫」の姿が見えてきた。

好きな言葉を一つだけ挙げろと言われたら、僕は「工夫」を選ぶ。子供の頃はそうでもなかったが、ここ最近はとにかく工夫をすることが楽しいと思っているからだ。

 

工夫とは、ちょっとした思考の捻り、ひと手間、オプションを加えることで、作業効率や使い勝手が劇的に改善されるスパイスのようなものだと捉えている。

 

だが、本当にふと、あることが引っ掛かった。というのも、「工夫」という言葉自体に、別に「工夫」の意味合いはそこまで乗っていないよな、と。


漢字に分解すると、工と夫だ。これが組み合わさると、なぜ「頭を使って出したアイデア」みたいな意味になるのだろうか。熟語の構成は、どれに当たる?

 

今日はそんなアホな着眼をきっかけとした、「工夫」という言葉のルーツを探る記事である。

 

 

「工夫」って、なに?

 

「工夫 語源」という捻りが無いワードで検索を掛けると、色々と定義がヒットした。正直、自分が思っていたイメージと、そこまでかけ離れていないとわかる。

 

① 工夫とは、考えをめぐらせて最善の方法を見出そうとすること。

https://www.waraerujd.com/blank-1013

 

そして元々は「工夫(こうふ)」、つまり作業に従事する人々が費やしていた時間そのものという意味だったそうだが、いつの間にかそちらの方は失われたようだ。

www.waraerujd.com

 

そして調べていくと、工夫とは仏教用語でもあると紹介されていた。ただしそちらの場合は、仏道修行に精進する」という意味合いの方が強めである。

 

とはいえそれを紹介する記事の中で、ある種の自分の盲点に、ハッと気づかされるフレーズがあった。それをちょっとここに引用してみよう。

 

これまでは自分の仕事の都合に合わせて、限られた時間内で効率を考えながら作業をしていました。
こういう場合に陥りやすいのが、つい欲張ってしまうことです。
品種を多く、収穫量を増やすことが物差しの基準になり、畑を最大限に活用しようと考えます。
順調に作業が進んで収穫がたくさんあれば嬉しいですが、予期せぬ事情で作業が滞り期待したほどの味や収穫がなければ失敗した気分になります。
失敗すれば改善して更なる向上を目指す。こうして効率化に追い回されると、ついには畑を自分のコントロール下に置くことが最大の目的になります。 今
年になり時間ができた私には、一通りの農作業を終えてもなお畑に居残る時間の余裕がありました。
すると、苗の成長に合わせて私が少しずつ手を差し伸べるという、これまでとは逆の立場に身を置いて世話をすることができました。
日々成長する野菜の姿は生命力に溢れ、私がほんの少し手伝いをするだけで十分に育ちます。
そして、これまでは欲張って無理な作業量をこなし、野菜を育てる本来の楽しみを見失っていたことに気がつきました。

 

動中の工夫 -心の田を耕す- | 東京禅センター | 今月の法話 | 妙心寺

 

―なぜこの説話にハッとなったか。それは、工夫を心掛けすぎてそれに執着すると、工夫そのものが目的になり、大事なものを簡単に見失うということに気付いたからだ。

 

仕事に置き換えるとわかり易い。作業効率を上げようと、ポモドーロ・テクニックとか色々な工夫をして、それを高めようと努力する。

 

そしてその成果が出ると、「よし、明日の仕事も前倒しでやっちゃおう」と欲張る気持ちが出る。よって更に効率化する必要が出て、工夫をまた重ねていく。

 

繰り返すと、工夫そのものが目的になり、作業の処理そのものが目的になる。自分で問題を考えて解く姿勢は大事に違いないが、それが目的地から乖離していくのだ。

 

設計図も無いままに、とにかく早くレンガを積んでモルタルを塗り続ける作業に似ている。僕は一体、工夫の果てに何がしたいのだろうか。

 

ここで大事な問いが生まれる。それは、僕がそもそも、工夫をすることで得たいものは何なのか、というものについてだ。

 

もちろんそのプロセスそのものも非常に楽しいのだが、例えば野菜を育てるからには収穫が一つの目的になるように、行為の果てには達成したい何かがあるはずだ。

 

・・そして今のところの暫定解なのだが、僕は大局観をもって職場や人生を観察することが、工夫をした果てに欲しい時間なのではないかとたどり着いた。

 

正直、どんな創意工夫も、無から生じるものではなく、今までに得てきた知識と経験の編集だと思う。課題を眺めて、それを紐解く時間が欲しい。

 

短期の、目先の課題を延々とチョコマカクリアし続けるやつは、決してリーダーではない。平たく言えば、僕は管理者・責任者の仕事をするため、工夫が必要なのだ。

 

多忙は気持ちがイイ。それは認める。だが健全かと言われれば、そんなことは無い。工夫が目的化するリスクは、ここに集約される。

 

無条件でいい意味の言葉など、そうそう存在しない。「工夫」とは、その一つの好例だと思えてならない。

 

終わりに:僕の中で「工夫」はどう更新されたか?

 

忙しいときほど、一気に処理しようと工夫をする。そのはずなのに、「空き時間ができた」という感覚は、不思議となかなか得られない。

 

その理由は、工夫そのものが目的化しているからではないか。そういう疑問を差し向けてみると、本当の意味で効率化が果たせるような気がしている。

 

サボることは論外だが、目先の仕事に囚われるのも論外だ。工夫によって生まれた余白を、意識的に慈しむこと。それが次の課題だと気付くことができた。

 

長期の視点を得るためには、目の前の課題から意識的に焦点を遠くに切り替える必要がある。だからこそ、時には工夫を”しない”ことも大切となる。

 

面白い答えが出たもんだ。少なくとも今週は、仕事中に最低1回は「暇だな・・」と思える時間を生み出すことを、工夫の目的に据えてみよう。

 

では今日はこの辺で。

 

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