最近、正直言って「面倒だな」「嫌だな」と思う業務の比率が増えた。それらによって、本来校舎を預かる者としてやりたい仕事がほぼできず、悶々とする。
仕方ないので早出したり、休日にちょっと出たりして補っているが、なんと不健全な状況だろうと、我ながら笑ってしまう。僕の半分以下の仕事量の人もいるってのに、だ。
自分がイヤな仕事は人に任せればいいと思う人もいるが、僕はそれをされて無茶苦茶腹が立ってきた人間なので、それはすごく心理的抵抗が強い。
―もっと言えば、人的にギリギリの状況でやっているので、振る相手もいない。そして最近悟ったが、嫌な時間は嫌なまま、まず好きになることはできないのだ。
そんな中、面白い考え方をたまたま知った。それは、「時間を流す」というものだ。
この記事を書いている人も腑に落としきれていないのか、言語化が途中という印象を受けたが、伝えたいであろうことは何となく想像ができた。
今日はこの「時間を流す」という思考法について、僕なりの考察と、ちょっとした検証について、取り急ぎ記事に書いてみようと思う。
自分視点の動画を「ながら観」する感じ?。
時間を流すとはどういう感覚なのか。先のブログ記事の中から、それについて表現している部分を引用してみる。
仮想的に寝ている状態を作り出す、煩悩を鎮め、無心の空間に入っていくこと、惰性の時間・・・
ここだけ切り取ると、「ぼーっとしている状態」のことかと思わされるが、まだまだ明確に定義することは可能だとも思える。
気付いたら時間がとても進んでいる状況やコンディション。一番わかり易い具体例は睡眠であり、次点は何かに夢中になっているとき、だろうか。
睡眠はちょっと特殊例過ぎると思うので、夢中になっているときのことを考えてみよう。一旦夢中という言葉の類語を辞書で引くと、こんなのが出てくる。
完全な注視: 専念 傾注 一心 専心 一心不乱 集中 埋没 没入 コンセントレーション
完全に注意を向ける、または注意を払う :只管 一心不乱 一向
何かに夢中になった精神状態: 一心不乱 熱中 無我夢中 没頭
ここで気になるのが、「夢中」という言葉が持つ様々な意味を共有しているものとして、「一心不乱」という四字熟語があることだ。
ということでこれを調べてみると、「一心不乱」は響きの通り、仏教用語であった。その元々の用例は、こんな一文だという。
我体を捨て、南無阿弥陀仏と独一なるを一心不乱というなり。されば念々の称名は念仏が念仏を申すなり。
という感じだ。ここで僕の中にピンと来たのが、「我体を捨て」という部分だ。一心不乱とは、ある対象への強い集中と同時に、その他一切の無視を意味すると思う。
強い集中は、狙って起こせるものではない。しかしながら、意識を外すことは、その限りではないのではないか。
主観的な視点だからこそ頭に湧く感情や感想の一切を無視することが狙ってできれば、「時間を流す」ことに繋がるのではないかと考えた。
ここから先は完全なる仮説なのだが、僕なりの思考モデルを、少しとりとめもなく書いてみる。
どのような観点や心構えで目の前の出来事を眺めれば、「時間を流すこと」に繋がるのだろうか。まず一つ手応えが得られたのは、小題の通り。
自分視点の動画を「ながら観」する感じだ。今自分が見ている景色は、いわばさして興味もない動画である。それくらいの意味付けしかしないようにする。
その画角の雰囲気は、いわば料理動画で手元を映しているあの映像である。単にそれをだらだらと観ているようなイメージで、現実世界を眺めるのだ。
感想は持たない。感情も無視する。意識的に無我というか、だらだらしたあの感じを再現するよう努めることで、結構疑似的に時間を流す感覚が得られたと思う。
そしてこれが肝腎な話。時間の経過は早くなったのかということだが・・確かに、単に「いやだいやだ」と思うよりは、圧倒的に早くなった。
コツを掴めばもっとスムーズに、疲労感も軽減できそうなやり方を開発できそうだ。良いやり方を学べたと思う。
では今日はこの辺で。