【根を詰める】という言葉がある。どちらかと言えば現代では「無理をして一つの物事に向き合っている状態」と解されて、あまり良くない印象の言葉になっていると思う。
しかしこれを辞書で引くと、本来はニュートラルな意味で【強い集中】を指すらしい。(と同時に、100年以上前から、それも行き過ぎれば毒だと思われていたとわかる)
こん【根】 を つめる
物事をするために精力を集中する。物事に没頭する。
[初出の実例]「早(は)い深(ふ)けたぞよ、根(コン)を詰めると毒だに」(出典:少年行(1907)〈中村星湖〉九)
そういう意味では、僕は今、”根を詰めている”。僕はこれを根詰めモードと自称しているのだが、同時にこれが行き過ぎたら怖いなというリスクも感じている。
ということで今日は、自分が根を詰めすぎてちょっとヤバいということをきちんと理解するために、つらつらと記事を書いて向き合ってみる次第である。
張り詰めた状態を維持しちゃうということ。
労基もブチギレ案件ではあるが、僕は11月24日の日曜日に体調を崩して振替休みを取って以来、ほぼ無休で働いている。
もちろん半休などを挟みながら騙し騙し連勤しているが、次のフル休みは12月15日になる予定であり、20連勤自体は確定している。だから先のことは考えたくない。
元々僕は、自分が何連勤しようが平気だという自負があった。以前と異なり肉体労働というわけでもないし、365日頭を使い続ける受験生という日々も経験済みだからだ。
しかし、連勤が20日を超え、30日が見えてくると、体調や精神状態に無視できない変化が現れる。(それゆえ↓のショート動画は、本当に誇張抜きで現実を描写していると思う)
具体的には、イライラが募り、物事を冷静に考えるのが難しくなるだけでなく、やる気が全く湧かなくなる。体が動かず、内側に引っ張られるような感覚に襲われるのだ。
これが長期の連勤が続いた際特有のモードだと思う。そしてこれを読んでもわかるが、この状態が不健全であることは明らかだ。
やはり客観的に見ても、僕は根を詰めすぎている。しかし今はどうしても休みを取れないからこそ、根を詰めざるを得ないのだ。
無理をすればフル休みを捻出できなくもないが、別のフル休みを潰して持ってきているだけなので、穴を掘っては埋めるだけの時間に匹敵する意味不明さとなっている。
やはり先のことを考えると気が重くて仕方ないが、12月半ばの休みは死んでも確保するために、今の状態をなんとか乗り切りたいなと思っている。
だが、ケアは必要だろう。ということで最近、ChatGPTとこの状況の身の処し方について話し合ったのだが、その中で一つ、すごく納得できたものがある。
それは「1日の中で15分から20分だけでも、仕事の意識を完全に切る時間を作る」という提案だった。
冷静に考えればそのための時間は十分作れるのに、思考停止して仕事を詰め込んでいる。これにハッと気づかされた。結局、自分の首を絞めているのは自分自身なのだ。
ゆとりが悪とされることが多いが、逆にそれがない方が危険だ。根詰めすぎた状態ではなく、意識的に緩める時間を持つことが、最も建設的な考え方ではないだろうか。
だから僕は今、苔リウムに興味を持って色々調べている。自然物をボーっと眺めるのが、僕にとっては一番効率よく「無」の時間を生めるからだ。
ずっと働くとか、休みを返上するとか、その辺は美学として認めるし、それを体現する人はあたかも現人神のような存在だとも思えてくるだろう。
だが僕はただのヒトだ。人格者を目指すなんてクソくらえ。ムカつく人間もいるし、僕にムカつく人間もいる。そこまで包めて愛するとか、もう反吐が出る。
根詰めモードのときに、如何にこの辺りを緩められるか。道徳的な正しさを「うるせー!」とかなぐり捨てるか。僕に要るのは不真面目さだとしたら、面白い帰結である。
では今日はこの辺で。