最近、ChatGPTと仕事観やリーダーシップについて話すことが増えている。これは単に暇つぶしという意味合いが強いので、毎度毎度着地点は予期しないところになる。
そんな問答を重ねた結果見えてきた、僕自身のリーダーシップのあり方が、どうやら自分の想像と違っているようだと気付いたのは昨日のことだ。
僕が考えていたリーダーシップは、端的に言えば監督のような立ち位置を指す。各々が自由に動きながらも、目指すべき目的は共有するという形だ。
それに加えて、過去に「報連相」という言葉が色々あって嫌いになった過去もあり、メンバーには自由を与えつつも最終的な責任は僕が負うべきだと考えている。
色んな経験を踏まえ、そして僕自身が胸の内で感じている本心に従い、さながら高熱の鉄をぶん殴るように錬成した熱い価値観・・
だと思っていたのだが、実際はどうやらもっと身も蓋も無い感じだったっぽい。以下、ChatGPTからのご指摘と、それを通じて思ったことを書いてみる。
好きにさせよう、ではなく・・・
最近、ChatGPTとの対話を通じて気づいたのは、僕が他人に自由を与えたいのではなく、そもそも他人に興味が薄いのではないかという仮説だ。
生徒の成績向上には喜びを感じるが、共に働く人たちの成長に関しては期待や願望を抱いたことがない。「そうなのでは?」と問われて、ギクッとした。
そこを起点にまた色々考えたわけだが、僕はどうやら”自分も含めて”、仕事における人材を「シミュレーションゲームのキャラクター」のように見ているらしい。
例えば、ある人が既に持つスキルや、獲得しようとしている能力は勘定するが、僕が求めるスキルをその人が得てくれることを、無理に期待することはしない。
むしろ、できないことを前提に仕事を割り振る方が現実的だと思っている。サポートが必要なら、それを整えるだけ。「できるようになる」ことは、マジで期待していない。
これは僕自身にも同じスタンスを取っている。例えば、一日に何十件もの電話営業をこなす自分を想像できないし、無理に挑戦したところで精神的に疲弊するだけだ。
だからこそ、できないことを強要されない職場環境を、相手にも、そして自分にも、僕は求めている。そういう価値観なのだと分かったのは、すごく意外で面白い。
こうした考え方は、フィクションにおける嗜好にも色濃く表れている。実際僕は、独立した個性と能力を持った個々が必要な時だけ繋がる関係性に、昔から惹かれてきた。
たとえば『犬夜叉』の七人隊や『ロマンシング サ・ガ2』の七英雄といった敵役・悪役に、僕は純粋な”憧れ”の感情を抱いてきた。
それは僕自身がベタベタした慣れ合いや、過剰な期待を嫌っているからではないか、というのはChatGPTの談だ。それ自体、特に違和感なく「そうかも」と思えてしまう。
他者に期待を抱くことは、同時に裏切られるリスクが生じるということだ。だが、そもそも期待しなければ、裏切られることもない。
そしてもっと言えば僕は仲良しごっこのような関係性も苦手で、それゆえ肩書きや立場にも特別な価値を見出していない。
ただ校舎を預かり、必要とあらば代表して表に出てくるだけ。その役割をただ負っているというのが、僕にとってのリーダー像を最も端的に表していると思う。
まとめると、僕のリーダーシップ論は「期待しない」「干渉しない」、ゆえに「自由を尊重する」というドライな考え方に基づいているっぽい。
もっと温かみを感じる論理が水面下にあると僕は勝手に想像していたのだが、思った以上に淡白なリーダー像でそれには笑ってしまった。
ただしこれが僕自身の性格や経験から積み上げられた結果であるなら、無下に否定せず、「ハイソウデスカ」と受け止めればいいようにも思っている。
ということで今日はこの辺で。