自問自答は、自分を客観視するための方法として、古来から使われてきたテクニックだと思う。自分で自分に質問をするというのも変な響きだが、これがなかなか奥深い。
それを学んだのは、やはり修羅場のおかげだと思う。あるいは修羅場のせいと言ってもいいが、僕にとってはもはや同じことである。

・・今日も頭の血管が切れそうになる理不尽を受けつつ、修羅場の中で藻掻き、平素なら間違いなく焦燥するような案件も、狼狽する余裕が無かったので逆に冷静に返せた。
狂気の世界の入り口に立っているような気がしつつ、しかし本当に熱狂している人の域には遠く及んでいないような気もしつつ。そんな中で”僕”を保つのは至難の業だ。
そして昨日の夜は遂に、頭の中に立ち込める反芻思考が強すぎて、眠りを妨げられる有様であった。遂に来るところまで来たか、と。
―しかし、そういう瀬戸際にいる僕の脳内にふと浮かんだある言葉が、巡り巡って僕を救ってくれるような心持がした。それこそが僕の本髄であることなのかもしれない。
今日はそんな、自分の深層心理、価値観の一番深いところに触れたような、そんな感覚を記事に書き起こしてみる。
「僕は今何を学んでいるか」

苦しい思いをしているという感想に蓋をする気はさらさらないのだが、それ以外の言葉でこれを解釈することはできないのだろうか。
あまりにも必死すぎてそんなことをふと思った際、閃いたのがタイトル通りの言葉だ。「僕は今何を学んでいるか」。この観点に立つと、閉じていた心が広がった気がした。
今僕は、確かに苦しい。しかし、その感情が生じるということは、何かしらの要因が自分に働きかけているということだ。それは何で、どんな学びに繋がっているのか。
実際、先述の通りに寝られなくなるほどもやもやした日は、思い立って布団から出て、メモ帳に自分の胸の内を書きなぐってみた。
僕はもう辞めたいのか?諦めて撤退に甘んじたいのか?そのあたりから自問を始めたが、僕の答えは明確に「否」であった。
むしろ、この状況をひっくり返すという未来・使命に燃えているという感覚を自分は覚えていることが、メモを通じて自覚でき、いい意味で驚いている。
そして今現在も、苦境を打開するヒントや方法は何なのか、過去自分の中で類を見ないほどの集中力と熱量で調べては、我ながら凄まじい勢いで試している。
結果として、「打てる手ってこんなにあったんだ・・」と驚いているし、「まだまだ魅力ある場所としての売り方はできるんだ・・」という希望も抱いている。
できることを全てやる、というのは、口にするのこそ簡単だが、実行するのはこの世で最も難しいことの一つだと思えている。
それくらい、アイデアは尽きない。僕は今、確かに毎日悲痛な気持ちになってはいるが、と同時に、恐ろしい勢いで経験を積み成長していることへの高揚感もある。
しかし高揚感にある時には、自分が暴牌を打つリスクも伴う。例えば「講師全員でTiktokにショート動画をアップ」なんてしようもんなら、信頼は一撃で失墜だ。
地に足をつける。出発点は強み・理念・差別化可能な要素に絞る。そのうえで打てる広報を全て打ち、顧客をこれ以上ないほど大事にするという意識を持つ。
それでも僕はまだ甘い。それは間違いない。だから熱い思いを持って苦難を乗り切った人の考えを、意識的にたくさん読むように変えた。心の支えと言ってもいい。
「ここまでめちゃくちゃに頑張っても、死にはしないんだ」という、ある意味究極の安心。それをよりどころにして、過去最高の密度で、過去最高の経験を味わいたい。
そんな意を改めて強くした。では今日はこの辺で。