詳しくは書けないが、ここ最近、生きた心地がしない。あるのが当たり前と思っていたものが僕の力量次第で消えるかもしれないと思うと、明日にも死ぬ気がしてくる。
死に物狂いという言葉があるが、どうにかしてその域に至り、自分という人間の能力を120%の発揮に持っていかないと、現実はひっくり返せないのではないか。

そういう焦りをずっと感じ続けている。比喩でもなんでもなく、本当に下から火で炙られているようなものだ。そしてその炎は間違いなく迫り続けている。
・・・ところで、【必死】な状態とは、何なのだろう。文字通り狂乱状態を指すものだと思えるが、そんなに単純な話なのだろうか?
ただそうなっているだけの人を必死と呼ぶことはあまり無く、どちらかと言えば【テンパっている】と評する気がしている。
本当の意味で必死になれたときは、どんな世界が待っているのだろうか。今日はそれについて、一つある心当たりを述べてみたい。
心が極限まで静かなとき、肉体は・・?
編集裏話に書かれていて驚いた、【熟達論】に関する逸話がある。最終章の【空】を解説したところでは、極限の集中状態に入った際の心境が言語化されている。
それを読む限り、身体が勝手に動くのを意識が追認している感じとか、周囲の音や雑念が消えていく感じが描写されており、つまり「静寂」が広がるイメージがあるのだ。
しかし実際に、”そのときのレース”の映像を見て驚いた。その形相たるや、内面がそこまで静かであることが全く想像できないほど、鬼気迫るものになっていたからだ。
この話を知って以来、僕にとっての【必死】の定義がかなり変わったのを感じている。本当に【必死】であるときは、態度・行動とは異なり、心は静かなのではないか、と。
冷静に考えれば、結果に対して貪欲であることはつまり、脇目も振らずにそれに直結する努力や手段ばかりを、徹底的に採り続けるということだと思えてくる。
最近は意識的に、独立をした方の創設時エピソードを探して読むようにしているのだが、大変だったという言葉以外の具体的な話を、そこから見つけることは難しい。
初めは「思い出補正か何かで忘れたのかな」と思っていたのだが、今は少し考え方が異なっている。その時期丸ごとゾーンに入っていて、だから思い出せないのではないか?
何ものでもないし、何も持っていない。それでもそんな状況から形を生み出す。そのためには生半可な努力・集中では無理だ。追い詰められた結果がこの境地なのだろうか。
正直、娯楽も封じ、あれだけ大事にしていた睡眠も少し犠牲にしつつ、僕は時間・資本・集中力の全てを仕事に注いでいく準備と覚悟を、日々着々と重ね続けている。
不思議なもので、その段階を踏んでいくと、羽生善治氏の言葉を借りれば「深い海へ潜っていく」ように、心が澄んでいくのを感じるときがある。
詰んでいると思っていた状況から、新しい手が見える。それを最速で形にし、手を打ち、リアクションを見て、また直す。自分の感情は脇に置いて、思考し、行動する。
そんなヒリヒリした時間を過ごしていると、始業の3時間前に校舎に来たはずなのに、あっという間に定時が終わっている。ここ最近はその連続だ。
もちろん、僕一人がこうして必死になったところで、たった数日で目に見えた成果が出るわけはない。だが、希望的観測は承知だが、その芽が見える部分もある。
それでも今は手を抜けない。自愛という言葉はしばらく忘れる覚悟も決めた。明日も明後日も、熱中症の危険など承知の上で、広報活動に邁進する予定である。
自分を追い詰めていくたびに、集中力が深まっていく実感がある。雑念が減り、感情も鈍化していっている。負荷を強めれば、僕はどこまで至れるのだろうか。
羽生善治氏も、将棋を突き詰めた先にある狂気の世界の入り口は見えている、と言っていた。僕も先日何かの記事でそこまで辿り着きたいと、呑気なことを書いた。
今は違う。その世界へ入らない限り、僕は現状を変えることはできないのだろうと思っている。33歳にして、こんな爆弾が待っているとは思わなかったが、仕方がない。
僕と同年代で起業した方の話、あるいは僕よりも10個年齢を食った状態で独立した人の話、そういった逸話が僕を支えてくれている。
願ったり、叶ったり。もしかしたら、単にただそういうことなのかもしれない。僕は何周り、強くなれるのだろう。そう思えば楽しみな気持ちも湧いてくる。
では今日はこの辺で。