色んなことを考えて決断し、手を打つたび、スキルとしてどうにかこうにか習得したいと願って止まないものがある。それは棋士のメンタリティだ。
シビアな一手を、自他の感情を脇に置いて打つ。そしてそれに対する手を見てまた考えて、決断する。その結果の勝敗という責任を、キッチリと負う。
こういうロジカル極まる思考、感情が入り込む余地が無いほど高密度な頭の中というのは、どうすれば僕も至れるのか。自分の中に経験が無いのもあり、本当に羨ましい。
もちろんそれが一朝一夕で身に付いたものでもなんでもなく、長期間厳しい世界に身を置いた結果の話だというのは、頭では理解している。
だが今の僕は、どういう場に、どういうメンタリティで自分の身を置けばその境地に近付けられるのか、その端緒さえ分からずアワアワしているという浅いところにいる。
さらに日常生活そのものをゾーンに近付けるためには、どこまでも感情を”意識的に”鈍化するマインドセットが必要だ。その最後のピースを、僕は急ぎ、突き止めたい。
今日はそのためのヒントを求めて、色んなことを考えたり調べたりした、そんなことをまとめてみる。
文字通り”一手”という感覚で。
棋士はどういう覚悟で一手一手を決めているのか。決断力や大局観に書かれていた話を、思い出してみる。すると、当時は読み飛ばしていた、ある哲学を思い出した。
それは、先を読みながら、ある種未来の見通しをかなりクリアにした状態で手を決めている”わけではない”というものだ。それはせいぜい、中級者同士の対局のことだと。
上級者、あるいはプロ同士となると、先を読みながら考えることなど不可能で、未知の局面に早々に突入し、自分の直感や信念を信じて駒を進めることになるそうだ。
つまり、ロジカルに考えたらこの一手しかないという、いわば数学の論証みたいに対局が進むのではなく、”お互いに”どうなるかわからないまま、詰みを目指している、と。
しかし、最後は大体こういう形で終わっていくはずだ、というぼんやりとしたゴールはある、とも書かれていた。このあたりのことが、今急に思い出され、ハッとした。
この点を僕は、結構派手に勘違いしていた。というのも、よくビジネス書では、2手先・3手先のリアクションまで考えて手を打て、という風に説かれている。
だから僕は自然と、「先を読み切ったうえでの一手が要る」と思っており、それを読み切れないばかりか、どうしてもそこに感情が混ざる自分に不甲斐なさを覚えていた。
しかしこれは要するに「無策は良くない」というだけで、3手・4手先の考えても無駄な局面までは詰めなくていいということではないか?
実際羽生善治氏も、「盤上の海、詩の宇宙」にて、「妙手は”待つ”、という感じ。そのためにボーっと、意識を敢えて集中させないこともある」みたいなことを言っていた。
僕はてっきり、一手打ったら、相手が打つまでひたすらあらゆる可能性をロジカルに考え続けて、十手でも二十手でも読もうと頭を絞り上げている・・と思っていた。
ただ実際のところは、意識にも濃淡があり、”大体こんなところだろう”という勘所を押さえておいたら、あとはあえて集中を揺らがせることもあるという話には、結構驚いた。
「一手を打ったら、あとは他力。相手に首を差し出している気分になる」といったフレーズがあったのも、そういえば思い出した。なぜこれを思い出したか。
それは、僕の弱点とは、自分が一手打ち、相手からの反応を待っている間に、意識がブレブレになることにあると、はっきり自覚しているためだ。
「あのメッセージはまずかっただろうか」「受け取って、苛立ちのあまり返事を保留しているのだろうか」「怒りの電話が掛かってきたらどうしようか」という風に。
だからか、なんというか自分の集中力を無駄遣いしている気になるのだ。所詮すべては「もしも」の話だし、それでいてその間、特定の物事に取り組む集中力も削がれる。
結局は、思考のプロである方々でも、「一定以上は考えない」のが正解のようだ。ただし漠然としたゴールは常に見据えた状態で、という但し書きがつく。
自分はこの手を打ち、相手は考えている。大体こういう結びになるであろう先はうっすら見えている。敢えて意識のピントをずらす………。
こういう目に見えない意識の在り方を、意識的にどこまで御せるだろうか。それこそ、不安に打ち勝つというより、不安に集中せずに手を選んでしまう感じだろうか。
僕が知りたいメンタリティを端的に表現するキーワードは、大局観と観見の目付、この辺りにあると、改めて確信に至りつつある。
ゾーンはまだまだ継続しており、意識の深化は続いているが、「まだ変身を残している」かのような状態に、僕は正直ワクワクしている。
では今日はこの辺で。