自分に厳しくするべきか、それとも優しくするべきか。これに対する意見は人それぞれだと思うが、僕はストレスに対するセンサーが鈍くなると非常にまずいと感じている。
何度か書いた話だが、僕は過去、根を詰めすぎたことが祟って、適応障害で4ヶ月間充電に費やす羽目になった時期がある。

今思えば、その原因は自分の疲労や精神的な追い詰めを、自分自身が認識できなかったことにあったと理解している。
当時、休日の終わりが近づくと、また明日から仕事なのかと、涙が溢れることもあった。今思えばどう考えても異常だが、当時は実のところ、そうは”思えなかった”。
無理矢理近い言葉で定義づけするなら、「学習性無力感」という言葉がしっくりくると、今は考えている。つまり強いストレスを受けた”結果”の現象だ。
そのため、最近は疲労に敏感であろうと意識している。正確には、昔からそうあろうと誓っているハズなのに、ここ最近また忘れていたので、改めて取り組むと決めたのだ。
今日は具体的な体験を元に、その辺のアレコレを書いてみる。
自分を上手に甘やかせないとマジヤバい、ってことはよく忘れちゃうからマジヤバい。

すごくどうでもいい話だが、ダイエットはまだ継続している。そのため、最近はスイッチがバチっと入ったのもあり、酒はほとんど飲まないようにしている。
やはりどうしてもお酒を飲むと体が浮腫むし、筋トレの効果も落ちるため、あれこれ工夫して後ろめたく飲むくらいなら、完全に止めた方がストレスが無いのだ。
だが、この記事を書いているこの日は、事情が違う。朝から晩までまあまあなストレスに晒され続け、精神がかなり消耗しているのを感じるのだ。
減量食ではあるものの、三食きちんと食べたのに、まるで満たされない感じが強く残っている。心の底に、もやもやした不定形のネガティブを感じている。
もちろんこのもやもやを無視して無理矢理寝ることもできるが、明日になれば、またそれが表面化してしまうだろう。最悪、生徒に向けてそれは暴発し得る。
だからこそ僕は、そのストレスを無視せず、押さえ込まず、評価もせず、ただひたすらに「そっかー」と受け入れることに決めた。
僕は疲れている。それを否定しない。それを前提に据えて、その上で「じゃあどうやって自愛するのが一番健全かな」と”考えてあげる”。
つまるところ、「今日はお酒を飲もうと決めた」というそれだけの話なのだが、自分の心を観察し、必要だと納得して実施するという点で、これまでと意味合いが違う。
喉が渇いている人には水を与えるように、心に溜まったストレスはそれに合った健全な形で発散させてあげるべきだ。それを”他人に提案できるように自分にそうしたい”。
僕にとって必要なのは「オフ」だ。しかし、1日丸ごと休むわけにはいかないので、少しの妥協としてお酒を飲む。代償はせいぜい浮腫みなら、十分ペイできているだろう。
結局、何が言いたいかというと、自分を客観視できる人はストレスマネジメントが上手だということだ。僕もそれくらい、自分に対し他人行儀でありたいと感じている。
僕はもっと僕という主体に、観察者として向き合いたいと強く思う。まるで小説の登場人物を俯瞰で観察する読者のような視点で、僕は僕を捉え直したい。
他者の悩みは「な~んだ」と思えるのに、自分のメタが全く同じことを訴えてきたら、世界が破滅する予告のような重さを覚える。そこのギャップをもっと埋めたい。
そのためには何をインプットし、どのように考えるのが良いのだろうか。これは折に触れて、死ぬまで探し続けようと思う。では今日はこの辺で。