精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

ストレスフリーな思考法に思いはせると、そこには釈迦の教えがあった。

世の中には、ストレスをほとんど感じていないように見える人がいる。そういった人たちを観察していると、共通する考え方があることに気づく。

 

実は、僕は子供の頃から「ストレスを感じない人の思考は何か違う」と漠然と思っていた。しかし、それをうまく言語化することが、不思議とずっとできなかった

 

例えるなら、日本人、韓国人、中国人の顔の区別は何となくつくものの、その違いを具体的に言葉で説明するのは非常に難しいのと似ている。

 

それと同じように、ストレスを受け流すのが上手な人の思考には、ぼんやりとした特徴があるのは判っていたが、それをどう普遍的に捉えるかが分からなかったのだ。

 

しかし最近になって、少しずつその本質が見えてきたというか、頭の中にあった知識がばちっと繋がる瞬間があったので、ここにワクワクしながらまとめておこうと思う。

 

 

暫定解:ストレスを感じにくい人の特徴とは?

 


ストレスを感じにくい人の最大の特徴は、「主語が自分ではない」ことだと思っている。実際彼らは、罵詈雑言に対し、「自分が言われた」と受け取らないことが多い。

 

例えば、誰かから否定的な言葉を投げかけられたとき、僕は正直「なんでこんなことを言うんだ?」「なんで俺はこんなにムカムカするんだ?」と、自分を基準にして考える。

 

しかし、ストレスを感じにくい人は違う。例えば「この人はイライラしているな。ギャンブルにでも負けたのか?」と、相手の背景を適当に想像し、とっとと意識から消す

 

また、子供が感情的になっていたら、「子供ってこういうものだよな」と捉えて終わりにするのもそうだと思っている。

 

こうして考えてみるとやはり、ストレス耐性の高い人は、ストレスフルな出来事を捉える際に 「自分」という観点で受け止めていないことが多い

 

自分自身に対する攻撃と”受け取らないこと”で、結果として精神的なダメージを最小限に抑えているのだろう、と僕は思う。意識的にせよ、無意識的にせよ、だ

 

これに関して、ある印象的な出来事が最近あった。僕が普段見ているコンテンツの中に、問題を間違えると物に当たる子供がいる。

 

例えば、わざと「ふん!」と言ったり、ものを叩いたり。シンプルに周囲の邪魔でもあるし、過去の僕の嫌いな面そのものでもあり、個人的にどうにも許しせないものの一つ。

 

それゆえ、感情的にこちらも反応したくなくて仕方ない。というより何度か小爆発を起こしている。

 

そういう事情もあり、当人に聞こえないよう小声で、「この子は問題を間違えるとすぐにイライラするタイプだから、注意したほうがいい」と、ある先生に共有した。

 

しかし、その先生の反応は意外だった。「いいじゃないですか。悔しがるのは成長の証ですよ」と返されたのだ。

 

僕にとっては迷惑行為でしかない行動が、別の視点から見れば「成長の証」となる。この解釈の違いに衝撃を受けた。

 

僕の考え方は、もちろん個人の感情的に相容れないというのもあるが、他にも「この子の行動が周囲に問題を起こすと、クレームがきて僕が面倒」というものがある

 

一方、その先生は「この子の内面的な成長にとって、どういう意味を持つか」を見ていた。主語が変われば、ストレスの感じ方も変わる。端的な例だと感じる。

 

・・だからといって、僕の考え方が間違っているわけではないとも思っている実際にクレームのリスクはあるわけだし、生理的な嫌悪感は意識的に制御しにくいからだ。

 

ある行動に不快感を覚えるのは、単なる感情ではなく、根本的な生理的反応でもある。これは本能や無意識化の癖に近いため、意識によるハックは困難だ。

 

しかし、それを踏まえてもやはり、ストレスを減らすためには「主語をずらす」という視点を意識的に持つことが重要ではないかと思う

 

自分を主語にすることでストレスを感じやすくなるというのなら、できる限り客観的な視点を持ち、状況を広く捉える練習をするべきだろう。

 

最終的には、「どれだけ主語を自分にしないか」がストレス管理のカギになる。この視点を持ち続けることが、より健やかな生き方につながるのではないかと考えている。

 

・・というところまで考えて気が付いた。この話はどこか既視感がある。何かと思ったが、これは仏教哲学の諸行無常の考えに似ているのだ。

 

僕なりの乱暴な解釈でいうと、あらゆる悩みや苦しみは、確固たる自分の存在が前提になっているから生じるものである。

 

ただ、確固たる自分の存在など、そもそもあり得るのか、と。万物は流転する。例えば雲をじっと見ていると、その端の形は常に変わり続けているのがよくわかる。

 

「定常不変」なものがそもそもあり得ない以上、確固たる自分という前提もあり得ない。それを”ある”と思って”受け止める”から、歪が生じるのではないか。

 

似たような概念に「空(くう)」というものもある。僕はこれをドーナツの穴のようなものだと考えており、周りにあるものによって生じているもの、と思っている。

 

僕が僕だと思っているのは、僕を取り巻くもののすべてを線で繋いだ結果浮かび上がってきただまし絵のようなものなのではないか。そう思えてきているのだ。

 

罵詈雑言で、ダメージを受ける。それ自体は確かにあるものだが、それによって自分が永遠に棄損されるのもまた、違うのではないか。

 

ありもしないものに依存する思考ではなく、大局観では何が起きるかを考えてみる。すると何も起きないし影響がないことが分かってくる

 

・・・最後の方は完全に整理が追い付いていないが、古代の人の叡智のすごさを急に実感でき、ひそかに心が躍っている。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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