先日めでたく34歳を迎えた僕だが、今は人生で一番、「感謝」と「感動」に対する閾値が低いことを実感している。
もっと若い頃は微塵も感情が動かなかったことが、今はなんなら尊いことのように思うこともある。この世に当たり前などないのだと、肌感覚で実感しつつある。
斎藤一人さんも「しあわせは今すぐなるのがコツ」ということを著者や講演でよく語っているが、そのメンタリティに近いところを、今僕は会得しつつあるのではないか。
ということで今日は、「感謝」と「感動」の閾値を下げることのメリットと、そのために普段から意識していることを、簡単にまとめようと思う。
しあわせの種は、本当にあちこちに転がっている。
思うに、感謝や感動というのはなかなかに厄介で、意識的にその感度を高めておかないと、段々と不感症になるという特性がある。
例えばずっと兄弟姉妹と同部屋で過ごすことに不満を感じてきた学生が、進学を機に一人暮らしを始めたとすると、多分その時はそれ自体が幸せそのものだと思うはずだ。
しかし段々、もっといい家具が欲しい、もっといい部屋に住みたいといった欲が生じてくると、かつて幸せを覚えていたはずの暮らし自体が、不満の対象となっていく。
これは人生において、様々な局面で感じることだ。人間関係、仕事、暮らし、あらゆるものにおいて、幸せの閾値は放っておくとどんどん上がり、やがて傲慢さに転じる。
結果、人は転落していくのだ。そんな構図、現実でもエンタメでも、あらゆる場所で見聞きしてきた話なのだが、いつの世も存在する事象のように僕は感じる。
ただ、ある意味幸いなことに、僕は失業を経験したり、結構強烈な理不尽八つ当たりを食らったりして、幸せの閾値を定期的に最低値に落とす機会が度々あった。
その度毎に、「給与があるってこんなに幸せなんだ」とか、「言葉が通じるってこんなにうれしいんだ」といった具合で、本当に些細なことに感謝し、感動を覚えてきた。
それを重ねた結果として、”その感度”を意識的に再現する方法を習得できたと思っている。あちこちにあるしあわせの種を探すことは、実は別に難しくもないのである。
とはいえ、今はただ「思う」だけでそれが出来はするが、それだけでは不十分だとも感じている。だから意識的に、トレーニングのようなものも、日常的に行っている。
ということで引き続き、その感度を磨くための僕なりの取り組みを書いていこう。
「とにかくお金を使わない」ゲームをしよう!
といっても、そのトレーニングの内容・趣旨は非常に簡単だ。端的に言えば「節約生活を送る」ことである。より安い金額で、同じ満足度を得る練習を重ねるのだ。
例えば、普段自分が無意識に食べているコンビニ弁当を止めて、それより安い値段で、同じかそれ以上の満足度を得られないか、考えるのだ。
一例として、僕はコンビニでパスタを買うのをもう止めた。自分でパスタを買って、レンジで茹でられるグッズを使い、ひき肉を炒めて混ぜれば十分だと気付いたからだ。
その方が2~300円下手すれば安く収まるのに、僕の実働(調理とか)もほぼ追加されない。と同時に、「それでも十分美味しくて幸せ」ということが、きちんと学べる。
こんな風に、「より安いものとちょっとした工夫」によって、満足度を維持、あるいはちょっとだけ削りながら、生活を送るようにする。
僕にとっては、これが一番、「感謝」と「感動」の閾値をいい意味で日頃から下げてくれる。たまにちょっと高いものを食うと、本当に目が潤むほど美味く感じるのだ。
これは何も難しいことではない。例えばラーメン定食が食べたくなったとき、試しに冷凍チャーハンとカップ麺で、似た満足度を得られないか確認するのも面白いだろう。
なるべくお金を使わず、頭を使うよう意識すると、「感謝」と「感動」の閾値は勝手に下がる。それはつまり、幸せを感じる機会を爆増させることに等しいのだ。
過去何度かどん底に落ちた結果、そんなことを心底感じている。では今日はこの辺で。