精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

自己観察についての勘違いに気づいた。-僕の内省など甘すぎる、と-

今日は、「自己観察」について、自分は勘違いしていたということをテーマに書いてみようと思う。勘違いというか、認識の甘さと書いた方が正しいかもしれない。

 

さて。以前、三島由紀夫の声をAIで再現し、本人が書いたエッセイ(と思われるもの)を読み上げている動画を紹介したことがある。

www.youtube.com


不思議とその声には心地よさがあり、またあまりにも論理的で完成された文章を聞いていると、自然と「しっかり聴こう」という気持ちにさせられるのだ。

 

だから昨日も、その音声を聞きながら家で寛いでいたのだが、その中で「悩みや不安」に関する話が出てきた。それに関して、三島由紀夫(の声のAI)はこう語っていた。

 

悩みや不安を抱えたときは、まずそれを「切り離す」ことが大切である。

 

自分の中で堂々巡りしている思考を一歩引いて眺め、「これは単なる事象」「これは自分の感想」と切り分けることができれば、それだけで苦しみは減る

 

出来事自体は避けられないが、それにどんなラベルを貼るかによって、それが苦痛にも、ただの刺激にも変わる

 

・・・この考え方は、仏教哲学にも通じる部分があり、僕自身とても共感した。「やはり、思索の果てとしては、大体同じところに行き着くのだな」と感じたのだ。


ただ、その後に続いた“内省と観察”の話を聞いて、正直に言えば「覚悟の差」に衝撃を受けた。自分の自己観察への姿勢が、いかに浅かったかを痛感したのだ

 

ちょっと大げさではあるが、ここから以下、本題に当たることを書いていく。

 

 

観察は”常時”。

 

三島の語る自己観察は、僕が考えていたような「1日10分程度、暇なときにやればいいもの」では”なかった”。


彼の言葉を要約すると、もはや「起きている間ずっと、自分の感情の動きや思念の変遷を観察し続けること」であると思った

 

「自分はどういう人間なのか」「なぜ今その感情が湧いたのか」「なぜこの出来事をそのように解釈したのか」-といった問いを、起きている間じゅう、自分に向け続ける


そのシビアな覚悟を聞いていると、「ここまでやらなければ、自己理解には至れないのか」と思わされた。と同時に、それ程自己理解は困難を伴うというのも、納得である

 

僕はこれまで、思い立ったときに手を止めて、ChatGPTを相手に10〜20分ほど、”1日を振り返って”いわばカジュアルに内省する程度だった。

 

あるいは、座禅や瞑想のように、一定の時間を区切って瞑目して行うものだと考えていた。しかし、本当に自己理解に努める人は、“常に、都度、”観察している


その覚悟の差が、自己理解の深さを決定づけるのだと思った。そして彼の自己理解・内観の熟達度は、彼の作品と最期を思うと、もはや壮絶なものだったとさえ感じられる。

 

「切り離し」の意識は、才能ではないことがわかったのは大きな収穫。

 

この話を聞いていて、一つ安心したことがある。それは、「切り離す」という意識の働き自体は、やはり相当な訓練の上に成り立っているということだ。


「事象」「感想」「雑念」はそれぞれ性質も起点も異なり、本来は独立している。それをすべて一緒くたにして「悩み」とラベリングしてしまうから、苦しみが増幅する

 

つまり、「切り離す」とは単に冷静になることではなく、自分の中で生起しているものを分類できるほど、その一つ一つに対する観察力と解像度を高めた結果ということだ。


それを支えるのは、圧倒的な自己観察”量”なのだと感じた。だから僕も、意識的にその量を、これまでにないほど高めてみて、何が違って見えるかを確かめてみたい。

 

・・・ところで僕は以前から、自分という存在を「50cm上から見下ろしているような感覚」で観察することがある。3人称視点で自分を操作するようなイメージだ。


そうすると、感情に呑まれにくくなるし、自分の言動を“俯瞰している存在”として扱える。そういう感覚や経験値は、既に自分の中にあるつもりだった。

 

ただ、それを断続的にやるだけでは不十分だったということなのだろう。何かを発見することが狙いだとするなら、僕の内観量ではその閾値に至っていなかった、と。


だから今日は、「起きている間中ずっと」、この観察を続けてみようと思う。自分が何を感じたか。何を思ったか。何に心が揺れたか。何に安らぎを覚えたか。


「自分が主体的に行動している」のではなく、「自分を超えた何かが僕という肉体を通して表現している」という意識で、少し距離を取って1日を過ごしてみたい。


その結果、どんな感覚が生まれるかは、また明日書いてみる所存だ。とりあえず今日は、その調査に重点を置いて過ごす、そのことに集中する。

 

観察というのは、「いつでもできる」からこそ、「ずっとやっていなければならない」のかもしれない。今回の気づきは、そう思い直すきっかけになった。

 

ということで、今日はこの辺で。

 

 

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