過去何度も何度も書いて、擦り倒したネタ。「僕は、電話が、大嫌いだ」。僕が胸を張って公言している数少ない「嫌いな物」の筆頭格と言っても、これは過言ではない。
掛かってくると、思い切り眉間に皺が寄る。だからテキストメッセージの返信を「めんどくさいから」と電話で返す人の気が知れない。口悪く言えば、神経をマジで疑う。
「良い電話だったな~」「最高の時間だったぜ~」という感想を持つことは、無い。もっと手短に、文面で済ませよと、毒づくことの方が圧倒的に多いくらいだ。
なんで、こんなに、電話が嫌いなのか。
その嫌さっぷりを言葉にしようと、何度も頑張って向き合ってきたが、そのたんびに「掴めた!」という手応えを得ながらも、「なんかちげーな」と思い直す。
jukukoshinohibi.hatenadiary.com
色んな人のnoteを読んでも、「共感」と「違和感」を同時に感じることが多く、この”いや”な感じを言葉にすることは不可能なのかもしれないと、半ば諦めていた。
そんな折、弘中綾香氏のエッセイ集を読んでいて、僕が物凄く共感を覚える箇所があった。その共感の正体を考えると、遂に「そうそうそうそう!!」という納得を得た。
その後少しだけ時間を空けて、マイブームのシーシャ一服し、改めてその納得を反芻する。今度は、これまでとは確実に違う手応え。そして自分に、誓った。
電話が大嫌い過ぎる僕を認めよう。好きになる努力は、もう止めよう。
今日はある意味、決着の記事である。
「恥晒しの場」
弘中綾香氏のエッセイのどこに強く共感したか。それは、運動音痴というコンプレックスと、それによって運動会・体育祭が憂鬱で仕方がないという告白に対してだ。
僕も運動会や体育祭が死ぬほど嫌いであり、それ自体にも納得するのだが、それがどれほど嫌かを包み隠さず言葉にしている部分を読むと、すごく刺さるものを覚えたのだ。
自分が人より劣っていて、できないと強く自覚しているものを、衆人環視で強制的に披露させられるあの場。恥を無理矢理曝け出すことを強いられる、公開処刑。
それがあるというだけで学校に行くのも嫌で、練習も嫌で、目立たないようにすることだけを意識して、笑われなければいいと諦めて。物凄く同意する。
「何がそんなにイヤなんだい?みんなで一丸となって汗水流すのは、とっても楽しい時間じゃないか!」と、アメリカンに励ます人間が、僕自身、当時とても嫌いだった。
運動ができる側に生まれた人間による、弱者への言葉の暴力。僕はそうとしか思っていなかった。心の中で思い切り舌打ちし、静かに耐える。思い出すだけで吐き気がする。
運動会も体育祭も、運動が苦手な僕にとっては公開処刑の場に過ぎない。フォークダンスも、組体操も、全部嫌だった。
仮に希望制であったなら、用紙を受け取った瞬間に不参加☑を表明し、満面の笑みで12年間その日は引きこもり続けただろう。本当に憂鬱なイベントだった。
―というところまで悪臭を放つヘドロみたいな思い出を想起したところで、ふと気が付いた。似たような感情を、僕は電話にも抱いているな、と。
元々僕はとてつもない口下手だ。”しゃべり”というコミュニケーション手段が凄く苦手で、恥ばかりが先行し、いい思いをしたことなど、基本的に無いと思っている。
なんでそんな人間がこの仕事をしているのか。これは僕自身も不思議で仕方がないのだが、それの内省は今すべきことではないので割愛する。
さて。そういうコンプレックスがあるがため、僕は溌溂と、明朗に、自分の意見を喋れる人に対し、性別も年齢も関係性も超越して、愛憎入り混じる感情を抱えてしまう。
僕より弁が立ち、僕よりユーモアのある人間が、喋りによって人を魅了する姿。カオスで目に見えない「頭の中」を、音声と言葉で完璧に表現する姿。
それは、体育祭で黄色い声援を受ける体育会系の奴らを思い起こさせた。その場に求められる技をきちんと披露することで、他者からの評価をちゃんと享受できる人達。
僕らみたいに、恥を晒すだけの奴らとは大違いだ。今でも思うのだが、得意なヤツらが恩恵を受けるのは良い。そこへ、苦手な奴らを一絡げにして、巻き込まないでほしい。
運動ができない人間を体育祭に無理矢理入れないであげてほしい。音痴を恥じている人間を合唱祭に強制参加させないであげてほしい。そんな風に、切実に、思う。
そう思うからこそ、僕がコンプレックスに感じている部分”しか”使えない媒体が、嫌で嫌で仕方がない。それが何か。そう、電話なのだ。電話は僕の、天敵なのだ。
運動音痴にとっての体育祭。音痴にとっての合唱祭。僕と電話は、その関係性と全くイコールなのだ!「金閣寺」のセリフを借りれば、怨敵といってもいい。
過去僕は、自分の口下手っぷりも、声の低さも、説明の回りくどさも、押しの弱さも、何度も何度も何度も何度も指摘され、イジられ、時には本気で叱咤されてきた。
そういう風に育ってきたのだから、「俺は喋りを頑張るぞ!」なんて発想になるわけが無い。できるだけ避けたい、したくない、逃げたいと思い続けて、ここまで来た。
テキストメッセージのやり取りで済むなら、それに越したことはない。話す以外の手段として、人は文字も発明したんだから、それを使っている。それだけだ。
幸い、僕は文章であれば、褒められた経験が何度かある。運動が得意な人間が体育祭に適性があるように、口下手な僕は、文章にならば適性があったようだ。
自分が得意とする技能で、やり取りができる、安住の地。しかし電話は、そこに居たいという僕の首根っこをひっ捕まえて、恥を前提とした地獄に叩き落してくる。
それが分かっているから、着信音が鳴った瞬間、自分がダイアルを押さねばならないあの瞬間、「電話すると伝えたんで」という報告を受けた瞬間、猛烈に不快なのだ。
「電話は・・・・喋りしか使えない場はもう僕にとっては怨敵なんだ」と、「金閣寺」の溝口みたいに叫びたくなる。
電話が嫌い過ぎる僕が、そうである理由は、理屈を完全に超越していたようだ。ASDゆえの特性も、視覚優位による特性も、影響はなくもないが、決定打ではない。
己の恥を晒すことを前提とした時間。それが約束されているから、僕は電話が大嫌いなのだ。他者がどう思うかは知ったこっちゃない。僕が、僕に、そう思うのだ!
「そうやって目に見えないところで”喋り”を虐げられてきた過去がある以上、好きになれるわけなんてないじゃないか、電話をよ。」そう毒づきたい。
これからも僕は、できるだけ電話を避け続ける。意地でも避け続ける。それ以外のコミュニケーションをめんどくさがる人間を、僕は面倒な人だとレッテル貼りする。
電話は怨敵。そういう公式を導き出せた記事。もう満足だ。ってことで、今日はこの辺で。