精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「幸福である努力」は必要だ。なぜなら、あるダークな理由があるから。

僕は昔から、「嫌なモノ」に触れてしまった後の、心のざわめきを鎮めるのが非常に苦手だ。人によっては10分も経たず鎮火する刺激が、日を跨ぐこともしばしばだ。

 

2日前と記憶しているが、業務時間外かつ定休日に八つ当たりの電話が来た際は、途中から真面目に考えて応対するのを止めるほど”生理的に無理”だった。

 

イメージとしては、クモがすごく苦手な人が、逃げられない車の運転中か何かの際、自分の肩口にジョロウグモがいるのを見つけてしまったようなものだと思っている。

 

自分にとって猛烈な嫌悪を起こさせるものに、強制的に向き合わされる時間。それは苦痛に違いないし、しかもそれが人間だと、その相手に腹も立ってくる

 

なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。それが世の常と言えばそれまでだが、その嫌悪が、あたかも服に染みた汚物のように、気になって仕方ない。

 

―そんなときにふと、「幸福」と「復讐」に関する、ある興味深いコメントを思い出した。そしてこの感覚こそが自分に必要なものだと、即座に納得した。

 

今日は以下、そんな話を書いてみよう。

 

 

 

幸せであることは、最もコスパの良い復讐である。

 

過去に人から見下されたり、蔑まれたりして悔しい思いをしつつも、それを乗り越えた人がほとんど異口同音に口にしている言葉がある。

 

それは、「遥か彼方までブチ抜いてしまったら、相手のことが本当にどうでもよくなった」という話だ。冷笑でも強がりでもなく、”見えなくなる”のだという。

 

そしてここでいうブチ抜きとは、自己成長の果ての世界であり、それはつまり、圧倒的に幸福かつ自由な状態であることに他ならないのだ。

 

基本、他人にイチャモンをつけてくるやつらは、自分が嫌いで、その状況は周りに責任があり、自分は攻撃する資格があると思っているタイプだ。

 

そして得てしてそのターゲットになるのは、一見幸福で、煌びやかに”見える”人である。その実質より、表面に見えていることが大切なのだ。

 

それが虚構ならば、攻撃に対して脆くもなるだろうが、”本当に心の底から幸福な人”にとっては、「だから何ですか?」というキョトンとした返答を寄こすしかないだろう。

 

例えば沖縄県に住んでいる人に、「年中温かいところに暮らしやがって!!」と噛みつくようなものであり、色々なことが終わり過ぎていて何のコメントも出てこない。

 

世の中に不満を抱え、改善の努力を起こすこともできず、人を見下し、八つ当たりし、それで留飲を下げる人間は、残念ながら一定数いる。僕だってたまに食らっている。

 

それに対して、心の一部を持っていかれるのも、復讐漫画を読み込んで疑似成敗に浸るのも、どちらも不健全だろう。では、最もいい復讐とは何なのか。

 

意外と、それは簡単だ。圧倒的に高水準で、健やかかつ幸福な人生を送ればいい。相手は攻撃してきても、こちらは幸福である。以上。その構図を続ければいいのだ。

 

相手が何をしてこようと、幸せであることが大切。「嫌なことがあって、楽しめない」のではなく、「嫌なことをされたんだから、楽しいことをしてやり返す」のだ。

 

自分が楽しいと思うことをする。心落ち着くものに触れる。美味しいと思うご飯を食べる。エネルギーをくれる人に会いに行く。それで1日をパンパンに埋める。

 

持続する嫌悪に対しては、自分を徹底的にハッピーにすることが効く。そう思うと、久しぶりに「もっと自分を大事にするか」という意欲が湧いてきた。

 

「幸福である努力」は必要だ。なぜなら、あるダークな理由があるから。それが書けていれば、僕は嬉しく思う。では今日はこの辺で。

 

 

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