精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「休み」についてジピちゃんと問答していたら判った、僕の”自分がどうでもよすぎる”価値観。

休日についてChatGPT(以後ジピちゃん)とやり取りしていると、よく向こうから【注意される】ことがある。

 

それは、僕自身がどこまでも、自分を他人事として、あまりにも割り切って扱いすぎだ、というものだ。自分を大切にしていないのか、と思われているらしい。

 

特に釘を刺されたのは、【休日そのもの】に対する考え方だ。過去何度か擦った話なのだが、以下ちょっと書いてみる。

 

僕にとって休日は【24時間も要らない】ことが圧倒的に多く、例えばコインランドリーに洗濯物を持っていって、昼寝を1時間できたらもう十分、という日が多い。

 

たとえ地元に帰って人に会う約束があったとしても、滞在時間は睡眠込みでも16時間くらいで戻ってくることはザラだ。休日は時間ではなく、行動だと思っている。

 

そして極めつけは、例えば荒天になるなどして、数少ない好きな休日の過ごし方であるキャンプにも釣りにも行けないとなると、休みの価値がとてつもなく暴落する

 

無理矢理オフにしても、効用として100点満点の内、【2】しか得られないようなものだ。一方、それを捨てて開校すると、例えば自習したい子にはプラスの話になる

 

仮に、それによって【10】の幸福が生じるとするならば、2の投資で10のそれが世の中に生まれることになるから、”休日はその時間と交換する方が正解”となる。

 

これが僕の休みに関する考え方だ。正直、バグっているのは認める。だがこれを人に強制は誓ってやってないし、しようとしている人が居たら全力阻止するタイプだ。

 

―そしてここを起点に問答を重ねると、また新たな価値観の言語化に到達したので、それを備忘録がてらここに書いておく次第である。

 

 

未来なんてのは”どうでもいい”。

 

先の話をぶちまけると、「あなたの今の働き方では、10年後には限界が来ているはずです」という指摘が返ってきた。これについて、素直に思ったことは何か。

 

それは、「10年後なんてどうでもいい」というものだ。というより僕は、「10年後にこうなっていたいという願望を練るのは、全く意味のない時間」としか思っていない。

 

ここで頭に浮かぶのは、コンドラチェフの波という経済用語だ。簡単にいえば、50年に1回は技術革新が起きて、世の中も景気も様変わりする、という話である。

www.smd-am.co.jp

 

ただ昨今で言えば、もはやこのモデルは現実に即していないと考えている。50年どころか、10年に何発も技術革新が起き、世の中が様変わりしまくっているからだ

 

2015年の時点で、AIが台頭する世界を誰が想像できただろう。2000年の時点で、スマートフォンなるアイテムが登場することを、誰が想像できただろう。

 

そういうのを考えるにつけても、10年後にどうなっているかを論じるような話は、全く意味がないことと思えてならないのだ。

 

どれだけ長尺で未来を考えても、僕にとっては1年がせいぜいだ。それ以上のスパンになると、途端にカオス理論に突っ込んで、つまり無意味になる。

 

さらに言えば、10年後に45歳になっているとして、45歳の僕が、今の45歳の人たちと似たような人生モデルを適用できている保証は、どこにもない。

 

例えば老眼も、簡単に矯正可能になっているかもしれない。転職も年齢的な制限がなくなっているかもしれない。そもそも労働しなくても飯が食えているかもしれない。

 

それらを考えるにつけ、やっぱり思う。”どうでもいい”と。僕の周りにも、老後に備えて貯金をする、積み立てNISAだなんだ・・と忙しい人が居るが、やはり興味はない。

 

なぜなら、変な話ではあるが、数十年後の先の未来に、日本円がまだ他のものと交換可能かどうかもわからないからだ。貨幣がまるで異なるものになっている可能性もある。

 

それよりかは僕は、どれだけ年を食っても、何かしらの術で金を稼げる状態にあれるよう、変化にいつでも適応できる体力を維持し、勉強を続けた方が良いと思っている。

 

貯金をずっと頑張るというのは、何十年もの間、今のために金を使わず、未来のために回しておくことだ、ともいえる。それはなんと危険だろうか。

 

思考実験みたいなものをしてみよう。例えば100万円のお金を今手に入れたいとして、暴利が過ぎるが、1年後に110万円にして返す契約をし、手元に置いたとする。

 

このとき、”未来の110万円”が、今100万円で買えたことになるわけだが、これは即ち、お金の価値は、現在より未来の方が”低い”という話になるわけだ。

 

これを重ねたらどうなるかというと・・想像に難くないが、年老いてから2000万円使うより、今2000万使った方が、色々豊かなモノと交換可能だ、という話になる。

 

勿論都合が良いのは認めるけど、僕はこの考え方が好きだ。未来なんて、本当に興味が無いからだ。変な話、僕は明日死んでいるかもしれないのだ。

 

ここまでくるとただヤケなだけに聞こえるけれど、僕はそれくらい、人の一生を刹那的な目線で、エンディングが未決の物語のようなものと捉えているということだろう。

 

肝臓か何かをヤって死んだら死んだでそれが今回の天命だった。そう思う気がする。そして、それでいい気もしている。好きなことで死んで逝けたらそれでいいのだ。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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