今日は、昨日の記事のアンサーに近い内容を書いてみたい。というのも、前のそれでは、目標の達成が近づくと興味を失う、みたいなことを述べた。今も同じ感情だ。
だがその後偶然に起きたある出来事と、それによって自分の中に自発的に生まれた、ある思考によって、さらに新しい仮説が立った。

その仮説はどこか恐ろしくも思えるし、見方を変えれば、逆に希望に満ちているとも思える。それは今後どちらに転ぶのか。以下、自分事ではあるが、分析をしてみたい。
俺がここにいるべき理由が消える予感。
きっかけは、日報に記載されていたとある一言だ。僕の校舎に入っている講師の一人が、別の講師との折り合いが悪く、それに対して不満を口にしているというものだ。
それを見たとき、次に全員が顔を合わせる場で何が起こるかが、透けて見えた。僕に責任を負わせるように、上の方々が意見を持っていく場面だ。
実を言うと僕はその現場を見なくなって1ヶ月以上経つ。そしてそのシフトは既に解消されてもいる。僕が満額でケジメを取る合理的な理由はなんだ?
既に終わったこととも、単なる個人的な感情とも、そもそも現場を見ていた人間の咎ともいえる。だが全て二の次で、つまり求められるのは僕が悪かったという言質なのだ。
これは被害妄想だろうか?傍目にはそう見えることだろう。だが白状するなら、これは過去何度も同じことを受けてきたがゆえ、自然と帰納される未来なのだ。
説明は全て言い訳として翻訳される以上、めんどくさくて仕方ない。それもあって、次の会議は本当に腰が重い。わざわざ時間をドブに捨てに行くのと同義に思える。
…というところまで考えたときに、ゾッとすることに気が付いた。僕はとっくに、社内での連帯感を失っており、周りの人を共に働く仲間とは、”考えていない”のだと。
どう動き、どう取り計らえば、”結果、僕が一番楽にその場を乗り切れるか”。周囲が配慮してくれる、理解してくれる、慮ってくれる、そのいずれも全く期待しない状態。
僕は元来、タライ回しの時間が心底無駄と思うので、とっとと自分のせいでもなんでもいいから引き受けてアクションをしたいタイプだ。貧乏くじを、自ら求める。
そういうのもあって、どうやら”コイツに責任取らせるのが一番早い”という暗黙知が出来つつあるように思う。
”頑張って会社に貢献している人は、忙しくてこういう対応が後手に回るのは仕方がないのだから、まだ余裕がありそうなやつに任せよう”、と‥でも?
客観的に見れば被害妄想全開だが、念押しすると、大なり小なり”これまでの流れから帰納される確度の高い未来”なのだ。
別に平気っちゃ平気というか、既に慣れ切ってしまったのも認めるが、だからといって、そうまでして、”俺がここにいる合理的理由って、なんなのか?”
興味や意欲ではなく、その”理由”が消えようとしている今、極めて限定的かつ個人的だが、それは僕の将来を考えると、かなり深刻な話なのではないかと思う。
だからいっそ、決めた。今まで以上に努力をひた隠しにしながら、頑張ってないように見せながら結果を出して、その果てに自分が何を思うかに任せよう、と。
期限としては3か月。それくらいなら死ぬ気で働いても死なないだろう。生徒数も売り上げも全てぶち抜いてやる。最後の花火のようなやる気が、また点いた。
だが同時に、そのための努力は全て秘匿する。アンドリュー・ワイルズみたいに全てを見えないところでやり切る。後ろ指差されても、それが正しいと翻訳しながら。
その果てに、誰が評価されるのか?僕への風当たりはどう変わるのか?その全てを踏まえ、僕がいるべき理由がその果てに残っているのか、しっかりと考えたい。
今年を区切りと決めていたが、それは変更なしで、2026年が進みそうである。では今日はこの辺で。