自覚するようになったのはここ最近っちゃ最近なのだが、すごく楽しみにしていたはずのイベントなのに、直前になって「面倒だなぁ」と思うことがある。
これは特に、泊りが絡むイベントでよく発生する。「ヨソで一泊するのか、少しルーティンが崩れて嫌だな・・」と言った風に。ここだけ聞けば、器の矮小なクズである。
しかしこの感覚が本来の楽しさを阻害するとか、実はつまらないイベントの余地なんてことは皆無で、実際行ってみればすごく楽しいことばかりだ。
一体何だろうか、この現象は。僕だけだろうか。そう思っていたが、「やるか、やるか」という本の中でも書かれていた通り、割と普遍的な話らしい。
とはいえ今のところ、どちらかと言えばこの矛盾する感情はあまり好きではないので、せめて解像度だけは高めておきたいと感じている。
今日はそんなお話である。
まずそもそも、僕はこの悩みを抱える唯一の存在ではない。
まずはすごく雑に、「楽しみなイベント 面倒になる」というワードでGoogle検索を掛けてみた。すると驚くことに、約1120万件もの結果がヒットした。
その内容を読んでみると、自分が思っていることに近いことを書いている人もいれば、「なんか適当にアドバイスしてねーか?」と思うものまで、玉石混交である。
いずれにしても、僕と同じことを考えている人はこの日本だけでもたくさんいることがわかり、これだけでも救われる心持がする。
しかも、だ。もっと深刻な人は、めんどくさくなることから憂鬱になり、結果約束を断ってさらなる自己嫌悪に嵌りこむという、恐ろしいループもあり得るようだ。
ここまで行くと気弱というより、メンヘラだと考えて差し支えがなさそうだ。僕自身はまだ病的な境界線を跨いではいない。そういう意味でも、ほっとする。
さて。ここからは、「あ、なるほどね!」と思ったこの症状の解釈と、その解決策について、サクッとまとめて終わりにしたいと思う。
人には見えないものが見えるということ。
僕にとってすごく腑に落ちたのは、このブログ記事である。
僕は自分について、HSS型HSPの、少なくとも思考の癖は持っていると考えており、その観点から考えれば、楽しみごとが急に面倒になる理由も、一つ仮説が浮かぶ。
それは、一言で”遊ぶ”と言っても、それに伴うタスクが一気に見えてしまうというものだ。夏休みそのものの楽しさより、夏休みの宿題の計画が気になるタイプである。
例えば、終了は何時ごろで、何時開始にすればいいか、予算はどうで、集合場所はどこ、そこまでの交通手段はこうで、ならば家をこの時間に出ればいい・・・・
という風に、僕はこういう考え方が本当に自動的に発動し、結果めちゃんこ疲れるということがとっても多い。
そしてイベントごととなれば、そこには必ず他者が関わる。僕が考えるべきことはさながら因数の増えた連立方程式の如く、とんでもなく膨大になってしまうのだ。
果ては、その場を楽しめるかという不安も付きまとう始末であり、なかなかに厄介だ。だがこう考えてみると、僕が時たま陥るイベント前の憂鬱は、簡単に説明がつく。
僕は無意識下で、大量のタスクに気付いている。それに気圧されているのが、原因ではないか。ただ、課題の正体がわかれば、できることはある。
まずはやはり、筆記開示だ。しなければならないと頭の中でうすうす感じていることを、徹底して言葉に書き起こす。
そしていざ書こうとすると、「やっぱこれ、どうでもいいじゃん」と思うものは、その時点で霧散していく。
やることは体感15個くらいあると思ったが、書いてみれば4つしかなかった。所詮そんなものかと、やるたびに嘆息してしまう。
―その後は、最近試している新しいタスク処理法の練習を兼ねて、一気に処理していく。それは、単純作業と複雑作業で、聴く音を変えるというものだ。
単純作業(何かを組み立てるだけといった、アウトプットや創造性を伴わない作業)は、自然音を聞きながら処理する。
一方複雑作業(問題演習やこのブログを書くことなど)は、耳栓をして、なるべく音が遮断された環境を作り、その中で処理していく。
そういう感じで、書き出した作業をRPGの敵の如く倒していくのだ。そうすると集中力はイイ感じに高止まりするし、心も穏やかになり、改めて楽しさが募っていく。
もちろん「あー、このメンタルね」という風に気にすらしないことが理想形だが、それが可能になるまでは、戦略的に処理していく方がいいように感じている。
では今日はこの辺で。