最近、僕はなぜこうも、自分自身に容赦なく鞭を打てるのか、自分でも不思議に思っている。もはやマゾのように仕事を入れて、隙間が無いことに安心を覚える有様だ。
勿論、それ自体が”自分に合っている”という感覚は抱く。隙間時間があるとすぐにネガティブな思考が頭に立ち込めてイライラする悪癖は、まだ残っているからだ。
―とはいえ、その対処策として、隙間時間をゼロにして仕事を詰め込むことは、本当に満点回答なのか、自分でも疑問に思い始めてもいる。
冷静に考えると、1日の中で授業や面談を1回もしなかった日が、2025年の中で、GWと盆を含めて10日あるかないかというのは、極めて黒い労働状況に他ならない。
―かといって、仕事を整理して週休2日がデフォルトになったら、僕は幸福を覚えるかというと、多分それはないとも感じている。多分焦燥・不安の方が強く感じるだろう。
そうやってもやもやしている最中、久しぶりに【心の疲れをとる技術】という本を再読していて、ハッと気づくことがあった。それは僕の認知のバグに関するものだ。
今日は少しばかり恐怖を覚えながらも、そのときハッと気づいたことをベースに、記事を書いてみようと思う。
僕はもう、”休憩”を忘れて久しい。
僕は以前、「休日」の取り方がわからなくなっているから、そのリハビリが必要だなぁ、という記事を書いた。しかし今思えば、それはまだ先の話である。
そもそも僕は、休憩の取り方自体を忘れてしまっている。休憩とはなぜ必要で、どんなメリットがあり、それはデメリットをどう凌駕するか、全て説明ができない。
足を怪我して、しばらく入院し、その後のリハビリをいきなりジャンプから始めようとしているのと似ている。まず僕に必要なのは、徒歩などの日常動作ではないか?
僕は隙間時間を活用して作業を行えとか、人が休んでいる間に仕事をすると差をつけられるとか、そういった甘言にちょっと翻弄され過ぎた気がしている。
それで結果を出せる人がいるというだけだろう。ただし、同じくらいかそれ以上に、休憩をしつつも結果を出せる人もいる。ただそれだけなんだと、今なら納得できる。
意識的に”休憩”を組み込んでみて、体感していること。
ということで今日はその一環として、ポモドーロ・テクニックを使いつつ、タスクとタスクの間の5分程度は、よほど手を離せない現場じゃない限り、休憩に充ててみた。
具体的には、温かいコーヒーを入れて、それを手に校舎横のスペースに出て、空や木を眺めつつも、呼吸への意識を強め、つまりボーっとする時間を取ったのだ。
その休憩を過ごして次の作業に入る際、自分の心身にどんな影響があったかを振り返るようにした。すると、明らかにその後、集中状態に戻るまでがスムーズになった。
そしてまた25分を過ごしたら、また5分間、一人になれる場所へいって、ひたすらに頭の中を空にした。腹式呼吸に意識を向けて、それ以外の思考を排除する。
―その後でまた仕事に戻ったのだが、過去なかなか無い、ある出来事が起きて驚いている。なんと定時の4時間くらい前にして、仕事がほぼすべて片付いたのだ。
どういうことだ?昨日も、朝から晩まで仕事がみっちりで、イライラしながらガーっとやって、やっと定時の30分後に終わっていた有様だったのに…?
もちろん、昨日に比べて今日の方が仕事量が少ないのも認める。ガッツリ腰を据えられるほどの余裕も、明らかに今日の方が多かった。
だが、それだけで4時間も巻いたことを説明できる気がしない。おまけに、心や気持ちにゆとりもできて、誰に対しても優しく接せられる気さえする。
休憩、おそるべし。こんな効果があったなんて。今日も明日も、意識的に手を止めて休む時間は、無意識でできるようになるまで、意識的に繰り返そうと思う。
では今日はこの辺で。