ここで常々、”休まない自分”というものへの愚痴を書いてきた。自分から自分へのそれというのも変な話だが、ホントに理性でどうにもならないくらい、僕は休まない。
連勤日数は一時期ちゃんと数えていたが、最近はそれも止めるくらい、どこまで続いているのか把握していない。11月は満額休みが1日だったが、もう何も思わない。

友人が休日に何をしたかを報告してくれても、何も思わなくなった。「まぁ、俺には仕事ありき、だからな」というメタがそれで強制終了させるためだ。
そのための理屈は、これまでたくさんひねり出してきた。結果が出てないから、体力が有り余っているから、退屈な時間が嫌いだから…。
しかし最近遂に、その自分の厄介な部分を紐解けて、結果僕が”休みを取ろうという気になる方法”が遂に見えたかもしれないとひそかにワクワクしている。
―ただしその裏にあったのは、またしても”僕には何かしらの特性があるのでは”という疑念をより確信に変える、そんな帰結だったのだが・・・。
そんな、悲喜こもごもな発見を、記事にする。
僕は言葉にしたことしかしない。

きっかけは本当に偶然だった。1ヶ月ほど前、休憩時間をより充実させたいなと思っていたとき、「これをするとくつろげる」という休憩法を、PCのメモに残していたのだ。
だからそれをなるべく1日の中で、区切りが良いときがあるたびに実験したいとも思った。そのため、それらを仕事用のメモに転記したのだ。
―すると、ちょっと一服入れたいなと思ったタイミングで、”僕は自然と”、休憩用として書き出したレクを眺め、それを”順番に”、素直に実行していたのだ。
コーヒーを飲みながら駐車場で空を眺める。独りになれる部屋で瞑目する。動物図鑑をじっくり読む。焚火の映像を視聴する‥‥。
そして仕事が終わって、タスクリストを見ていると、僕は休憩として用意していたあれこれを、特に意識することなく完遂していることに気づいたのだ。
そのときはそれが何か重大な発見のヒントである‥とはあんまり思わなかったのだが、今思えば、あの時点で気づいていても良かったほどのインパクトがあった。
振り返ればそんな風に感じている。
それに気づくまで。

ではなぜ1ヶ月ほど経って、そのことに思い至ったのか。実はそこに辿り着くまでにも、いわば偶然の発見が連なっていた。
一番大きなトリガーは、いわゆる猛烈に働く起業家の方々の1日の様子を調べたことにある。想像に難くないが、やはり彼らの仕事量、1日の密度は異常だった。
しかしその中で、「休憩時間はそれはそれでガッツリと組まれている」ということに驚いた。極端な場合だと、ランチは1時間、観葉植物の世話にも1時間、という風に。
僕は最初は、「彼らほど仕事を処理する能力が高ければ、休憩もそれくらい取れるという、そういう資格や能力の話なのかなぁ」という浅いことを思っていた。
だが、今思うことは綺麗に反対だ。「むしろこのガッツリした休憩を、先にスケジュールとして組んでから、他の時間に仕事を積みまくっているのではないか?」
つまり、時間を埋めることにおいて、優先順位が高いのはむしろ休憩の方なのだ。僕みたいに、「早く仕事が終わったら休むという人は、むしろ少数派なのかもしれない。
すると、僕が引用した例も、果たしてそのモデルとして妥当だったか、疑問符が付く。バリバリで仕事をするマッチョな代表格と言えば、堀江貴文氏だと僕は思う。
だが彼は、”まず自分がワクワクする時間を確保し、それで埋める”と言っていた。仕事は隙間時間にギュッと圧縮し、一揆果敢に終わらせて、そしてまた遊ぶのだと。
やはり、優先順位は「その人にとっての快の感情を抱く時間」に充てられている。それに気づいてからというもの、僕は冒頭にある通り、スタンスを変えた。
まず、したいことを”組んだ”。それは、他の作業をする時間を逼迫することになっても死守すると決めたのだ。
今日で言えば、コーヒーを沸かして飲む、校舎の外で一人ボーっとする、等だ。結果、それによって本当に仕事をする時間が減って、残業が確定したのだが…。
だが、人生に主体性を取り戻すきっかけだ、という期待は持てる。そうか、先に休むと決めてしまえばよかったのか!!
僕はこれまで、仕事を早く終わらせて、完全にすることが無くなれば、そのあとで快く休むと思っていた。だが実際は逆だ。そう捉えていたから休まなかったのだ。
結論。休憩も休日も、あらかじめ決めてしまう。これこそ、僕が休憩・休み・息抜きを取れるようになった方法なのである。まぁ、暫定解に過ぎないのだが。
では今日はこの辺で。