「大人なら、したいことより、すべきこと優先」という言い回しを、よく耳にする。これ自体、僕は別に否定も肯定もなく、「そうだよね」という程度に受け取っている。
むしろ社会人として考えれば、この考え方の方がコミュニティを円滑に回し、仕事で大きな成果を出すためには必要な心構えなのだろうという風に、やや肯定派でさえある。

ただ、それが無条件に良いことという風にも思っていない。その状態を過剰に、しかも長期間にわたって適用してしまうと、大きな弊害が出ると思っている。
今日はそんなことをテーマに記事を書いてみたい。
「すべきこと」が肥大化すると、「したいこと・したくないこと」が簡単にかき消される。
「すべきこと」ばかりを理性で探し続けると、何が起こるか。想像に難くないが、自分が本当に「したい・したくないこと」が、全く見えなくなるのだ。
その状態で「休んだ方がいいよ」とか「したいことをしようよ」とか言われても、それらが労いや提案ではなく、全く意味の分からない論理に聞こえてしまう。
例えば、「この問題はマクローリン展開すればいいよ」みたいなことを、前提条件も文脈も共有されていない場で突然言われるような感覚に近い。
全くもって何の話をしているのか分からないし、そうである以上、議論として成立する余白もない。僕はこの状態を、結構危惧している。
ここまでくると、いわば「大人の振る舞い」を通り越して、少しまずいところまで来ている気がする。そして僕は、ここに片足を突っ込んで、重心も少し乗せている。
だからこそ、「自分の心の声を拾うのが上手な人」、いわゆる「自分の思うままに生きている人」の思想を改めて学んでみることにした。
例えば、その代表格となれば堀江貴文さんのような人たちだろう。彼らの言葉を読んでいて気づいたが、彼らは「したいこと」を、理屈として定義していない場合が多い。
むしろ、ほとんど”感覚”に従っている印象だった。肌感覚として「面白そうだな」「ワクワクするな」と感じたら、やる。そうでないなら、しない。そこに理屈は無い。
ここで改めて重要になってくるのが、「感性」という言葉だと思っている。理性よりもさらに奥、潜在意識の中核に近い部分からのシグナルを、ちゃんと受信できるかどうか。
それを言語化できれば理想的だが、例え言葉にできなくても、「これは違う」「これは惹かれる」という反応を、明確に感じ取れるかどうかが重要なのだと思う。
この作業は正直、かなり難しい。大体の場合、「したいこと」を閃いた際、即座に「それを封じて、すべきことに翻訳する」という意識付けが完全に癖付いているためだ。
だからこそ、ここはかなり腰を据えて、一度徹底的に理性を外す必要がある。ここで言う理性とは、社会的な役割としての「分人」的な自分、という意味だ。
まずは、「今の自分の感性は、何をしたい・したくないと思っているのか」というところを、当てずっぽう上等で決め打ちしてみる。そして、それに乗っかってみる。
「なんとなく」に従う勇気、というほど大げさな話ではないが、感性に従うと色々逸脱するリスクがある一方で、とても大事なものに出会える可能性もある。
最近は、「したいこと」という言葉をそういう意味で捉え直している。その結果がどうなるか、それはおいおい確認することになるかなと思っている。
では、今日はこの辺で。