最近、「心の強さ」という言葉の解釈が、自分の中で変化しているのに気が付いた。自分が憧れる「心の強い人」の像が、知らない内に変わっていたのだ。
そもそも、「心が強い人」と聞いて、皆さんはどんな人を思い浮かべるだろうか。僕は、まさに唯我独尊、自分の意思を周囲を気にせず押し通す人をイメージする。

普通の人であれば、他人との軋轢なんて構図には、恐れや不安を強く感じる。だが心が強い人は、衝突さえも気にしない。そんな人だ。
ただ、このイメージは「心が強い」というより、いわゆる「サイコパス」のような人物だと気付いたのが、ざっくり数年前の話である。
そして自分がサイコパスになる素質があるかどうかを考えてみると、自分がそうではないことと、別にそうなりたくもないことに思い至り、完全に納得している。
そこで終えると、今僕は「心の強さ」を完全に諦めているように聞こえる。だが実際は、その目的地自体は全く諦めていない。変わったのは、その方法だ。
今日はそんなお話を書いてみる。
なれんもんは、なれん。

改めて、僕は今、心の強さをどう捉えているかを述べる。僕はやはり「サイコパス」にはなれないし、近づくことさえ難しいと、それに”なる”のは諦めている。
しかし、自分のメンタルが弱いことを自覚していて、かつもっと自分の心を手懐けたいと思っている以上、それを放置するつもりは毛頭ない。
生まれ持った才能や遺伝で自分の心の強さはある程度決まるのは一つの真理だが、努力次第で変えられる、伸ばせる部分も同時に存在するのもまた真理だからだ。
僕の場合、”当初憧れていた類の”心が強い人にはなれないが、それでも自分の特性を冷静に見つめ直すことで、別ベクトルからそこに至れるのではないかと思っている。
実際、僕は嫌なことをサイコパスのように振る舞って完全に無視するなんてことはできないが、同時に、他人が訝るほど「鈍感」なときもある。
他の人がためらうようなことを、僕はあまり気にしないこともあるし、逆に僕が気にすることは他の人が全然気にしないこともある。
この「認知のズレ」はずっと僕の弱点だと思っていたが、最近これを取っ掛かりとして自分の心を鍛えていけないものかと、どこかヒントのように思い始めている。
鈍感さを無意識に発動しているときの僕は、心の中で何が起きているのか。何をどう解釈した結果、人が「鈍感」と呼ぶ返しになってしまっているのか。
鈍感さもある意味、ダメージを受けないマインドの在り方という意味で、心の強さの一側面になる。次のステップは、観察によりその構造を理解して再現することだ。
ここまで考えると、心の強さとは、異なるいくつかの能力の総称や集合体のようなものだという仮説に自然と至る。
野球の「うまさ」に例えるなら、それが意味するのは打撃のことか、それとも守備や走塁のことかを定義しないと曖昧になるように、心の強さにも種類があると思う。
そもそも悪感情に強いというタフネスもそうだが、ネガティブな感情を意識的に切り離す力や、ダメージを受けた後に早く回復する力なども、心の強さだと言える。
特に回復力に関するものは、「レジリエンス」と呼ばれ、昨今のメンタルケアに関する研究や取り組みにおいては、とても重要視されている印象だ。
確かに、ダメージを受け易いマインドであっても、そこからの回復力が高ければ、それも心の強さと言える。僕の目指したい心の在り方として、これは納得感がある。
ただし、どちらの強さを目指すかは人それぞれだが、僕はどちらか一方に特化するより、両方のスキルを磨いておくことが大切だと考えている。
心の強さは一言で片付けられるものではなく、派手な部分ばかりに注目すると逆に辛くなることもあるからだ。しかしダイナミックな方を無視し続けるのも、辛い話だ。
「心の強さ」が1種類しかないと思うとすごく苦しい。そのことはしっかりと忘れないようにしておこうと思う。
では今日はこの辺で。