保護者アンケートを見ていると、「勉強法を教えてほしい」といった要望がよく書かれている。これについては、賛否両論というか、論戦が絶えないように僕は思う。
先に、勉強法の指導に、本当に意味があるのかということについて、僕の立場を述べたい。結論から言うと、僕は勉強法の指導は必要だと考えている。
勉強法自体の指導も、僕らが子供の頃に比べて学習の質も量も変化した今、非常に重要なものになってきていると思うからだ。
以下、諸々の理由について書いていく。
勉強法なんてのは幻想なのか?
勉強法を伝えることには意味がないのではないか、という意見を散見するが、こちらの主張を支える根拠もなかなかに強いと思う。
例えば、筋トレの初心者を例に取ろう。まずはどのようにしてトレーニングをするべきか知りたいと思い、YouTubeでプロによる筋トレ解説動画を観るとする。
そこで解説されているポイントを押さえつつ、実際に動作をその目で見て、自分でエアで試したうえで、実際に応用を試みる。これは果たして、効果的なのか、否か。
難しい話だが、トップの人たちがそれぞれ説く”良いところ”だけを継ぎはぎするように自分に移植しようとしても、思うような成果が得られることは稀有だろう。
そもそもその人達が到達している段階と、初心者が居る段階は、まるで異なるからだ。プロが技能を突き詰めた点と、初心者が心掛けるべき点は、完全な別物だ。
「これを心掛けています」という一言の裏には、何百時間という試行錯誤や経験値が隠れているものだ。そこまで汲み取ることは、不可能に近い。
実際、勉強法にも同じような側面がある。ある人が成績を伸ばした方法があったとして、それがそのまま別の人に当てはまるかどうかは、やはり話が異なるのだ。
ある時期、洋楽を聞き続ければTOEICのスコアが上がるという勉強法が話題になったことがある。実際、それに関するとても分厚い本が並んでいるのを見たことがある。
しかし、試しても無いのにコメントするのも気が引けるが、多分僕には効果がないと思っている。理由は、僕自身が洋楽をあまり好きではないからだ。
つまり、勉強法の効果は、その人に適しているかどうかに大きく依存する。それこそが、勉強法は教えても意味が無いよねという主張の裏に在ると思っている。
しかし、最近は「人の頭に記憶がどうすれば残りやすくなるのか」「記憶をどう応用できるか」についての研究が進み、事情が変わってきている。
科学的に見て、こうすれば絶対に成績が上がるという方法こそまだ発見されていないものの、実は、これは効果が薄いという勉強法は既に体系化されつつある。
例えば教科書にマーカーを引くだけ、教科書の説明をノートに写すだけといった方法は、記憶の定着率を鑑みても時間の無駄だという見解がある。これは僕も同意だ。
しかし、勉強を”知らない”子にとっては、そういった手法は手軽で、かつ達成感もあるため、無意識に選びがちである。ノートが埋まるのは、精神的に心地いいのだ。
僕自身も中学生の頃にはそのような方法で勉強していたし、最近もまだ「一緒に勉強しよう」的な配信動画で、教科書写しの様子を発信している中学生もいると聞いた。
それを踏まえると、あらゆるスポーツには普遍的な【型】が存在するように、勉強にもまた、段階に応じてそれぞれの【型】があると、僕はどうしても思い至ってしまう。
中学生の国語の定期テストを例に考えるなら、60点を目指す生徒に対しては漢字の記憶を重視する方が、タイパとしては優れている。
ただ、80~90点を狙う生徒であれば、多くの問題集を用いて、試験範囲の長文に対するあらゆる質問に触れさせておくことが大切となる。
各段階に応じた勉強法を指導していくことで、生徒の学力向上に繋がる。スポーツの練習のように、個人に合ったカスタマイズを行うことも大切という話なのだ。
それを踏まえれば、勉強法の勉強を怠る講師は、色々と大丈夫なのかと本当に不安になる。30年前のやり方を絶対不変のメソッドとして今の世代に教えるようなものだ。
僕も、勉強法の勉強は日々欠かさないように改めて気を引き締めて、更には自分の経験もそこに都度、加えていきたいと考えている。
そんな現在、資格の勉強には取り組んでいないが、最近になって漢字検定2級を受けたいと思うようになってきた。これを通じて、色々実験できればと思う。
もし勉強が楽しくなれば、その先に準1級も目指してみたい。まぁ、話が変わってくるので、これ以上は書かないけど。
取り急ぎ結論として、勉強法の指導には十分な意味があり、学習効率を向上させる上で有効だと僕は考えている、ということで。
今日はここでオシマイとする。