精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

遊びは仕事で、仕事は遊び。各々を充実させるコツは、相互に学べ!

ついこないだ「鬱が爆発した」と書いた手前なので、「躁状態なのか?」と思われるかもしれないが…最近、毎日が楽しいなんか浮ついた感じがずっと続いている

 

純粋に楽しいと思う感情が久しぶりに返ってきた結果、その状態がこれほど心地良いんだと、驚きと喜びを同時に感じている印象だ。

 

いうなれば、足を折って、その治療を終えた人が、久しぶりに自分の足で立った時のような感動を覚えていると言える。失っていたものが返ってくると、やはり心躍るのだ。

 

・・・そして、その”楽しさ”が満ちた状態は、僕がずっと好きじゃなかった”空き時間や休日”の意味合いさえ、すっかり変えてしまったから驚きだ。

 

今まで無為としか思えていなかったそれらの時間の過ごし方について、一つ”結論”と言ってもいい決定打を、遂に閃いたのだ

 

それもあって、あれだけ気が進まなかったオフを取ることも、今では抵抗がなくなり、むしろそれはそれで充実した時間が過ごせると感じ、ポジティブになっている。

 

ということで今日は、あれだけ嫌だった休日という空き時間が急に楽しくなった方法について、一気に言葉にしてみようと思う

 

ただ、そんな大仰なことは出てこないので、そこはご了承いただきたし。

 

 

仕事のように、遊んでみただけ。

 

ずっと苦手だった”空き時間”の意味合いが変わったのは、ふとした思い付きがきっかけだ。それは、「いっそ仕事みたいに計画を可視化してみるのはどうか」というものだ。

 

というのも、僕は普段、”空き時間は仕事のことを忘れて、空白の時間とすることで、精神と身体を休ませるべき”という一般論に従い、何も予定を組まずにいたのだ。

 

すると段々、「あれもしてない、これもしてない、そもそも何の生産性もない!」という不安や焦燥が募ってきて、結果として全く休めず、だから嫌いと思っていた

 

そんな僕は、普段仕事をする際は、なるべく前日の夜に次の日にするべきタスクを箇条書きにして、Keepメモに打ち込んでいる

 

あとはそれを愚直に、なるべく早く効率的に消化していく。そんな風に取り組んでいる。この間は、ほとんど余計な不安や焦燥は出てこず、何なら心地よいとさえ感じる。

 

そういうのもあって、休日は苛立たしい時間であり、むしろ仕事に打ち込んでいる方が心穏やかという構図が生まれ、結果休みそのものを忌避する・・という有様だったのだ。

 

・・一体なぜ今まで気づかなかったのか、本当に不思議なのだが、それを踏まえるなら、仕事のときみたく、休日にもタスクリストを作ればいいのではと、ふと閃いたのだ。

 

家のPCを開き、メモ帳を立ち上げ、Keepメモに打ち込んでいるのと同じテンプレを用意する。空き時間だからこそできること、したいことを次々に書き込んでいく。

 

読みたい本、掃除したい場所、捨てたいゴミ、行きたい買い物…。書き出してみると、それは次から次に出てきて、あっという間に15個くらい作れてしまった

 

そしてそれらに番号を振り、いつも通り乱数メーカーを回して数字を出力し、出た順番通りに”愚直に”休日用のタスクを実行していくと・・・・・

mpnets.net

 

仕事のときと同じくらい、穏やかだが充実した時間を、ついに過ごすことができたのだ。本当に何年振りかわからないほど、僕は休日を味わい尽くせたように思う

 

しかも、今回はどこか遠出の旅行とか、誰かと会うとか、ある種のイベントを一切用いることなくそれが達成できたことから、その意義は非常に大きいと思っている。

 

これは普遍的かどうかはわからないが、自分にマッチした仕事の方法論は、プライベートの際の過ごし方にも直結している可能性があるというのは、非常に面白い発見だ

 

仕事のように遊んだだけ。本当にそれだけなのだが、それがとても充実していたので、こうして言葉にせずにはいられなかったという具合である。

 

僕は【余白】は好きだが、【退屈】は嫌いだ。

 

そんな僕だが、多分多動性を持っていると自覚しているものの、別に【余白】の時間を否定したいわけではない。むしろ”つれづれなる時間”は、普通に好きだったりする。

 

そのはずなのに、1日の大部分をそれに充てると、途端にイライラしてくるという矛盾も感じていた。だからこそ、自己理解がある程度から進まなかったのだ。

 

だが、先の取り組みを経て、より鮮明になったことがある。僕は、【余白】は好きだが、やはり【退屈】は嫌いなのだ。我ながら何を言っているかわけわからないが‥。

 

今のところの僕の定義だが、【退屈】とは本当に、したいこともすべきことも無い状態だ。これは主体的に選んだというより、結果そうなった、というbeingに近い。

 

一方の【余白】とは、「この時間は頭を使わない」という風に、自分が目的や意義ありきで主体的に選んだ時間であるように捉えている。

 

だからこそ、アポが急に飛んだ空き時間は【退屈】だが、ソファでゴロゴロとポテチを食いながらWikipediaを読んでいる時間は【余白】なのだと納得している。

 

こういう風に、主体性や裁量が及ばない部分があればあるほどもどかしさを感じる点も、実は仕事を通じて理解していた僕の特性であることを、今思い出した。

 

遊びは仕事で、仕事は遊び。というか人生という括り方をすれば、その2つは正直なんの差もないというのが、実際なんじゃないかと思う。

 

では今日はこの辺で。

 

 

 

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