精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

衝動性・連想癖がすごい人ほど、「予習」はマジマスト。

今日は「予習の意義」について、自分の中で認識が更新されたため、忘れないうちに整理しておきたいと思う。

 

それを書く前に、ここ最近生じている、新たな悩みについて触れておく。それは、自分の持つ衝動性や多動性が、年齢とともに強まっていると感じることだ。

 

特に、説明などの場における、連想癖がひどくなっている。例えば些細な質問に対する回答が脱線しすぎてしまい、話が本筋から逸れてしまうことが増えたのだ。

 

このままでは、自分の授業が雑談によって過度に味付けされた分かりにくい何か、つまり売り物にならないゴミになるのではないか、という危機感を覚えてさえいる。

 

授業に臨む際、自分の気持ちよさや楽しさを優先するようになったら終わり。この考えは以前から根強く持っている。そうなったら引退待ったなしだろう。

 

ただ、そんなことをのたまう僕自身が、今その危うい方向へ進みつつある。ここ1~2週間、授業のたびに、自分の言動は厳し目に振り返り、そして反省している

 

・・・しかし、確か1ヶ月ほど前にも、同じようなことに悩んでいる的な反省文を書いたにも関わらず、どこか悪化しつつある自分には辟易してしまう。

 

では、どうするべきなのだろうか。この衝動性や、連想の強さは、生まれ持った特性の可能性が高いので、完全に消すことは絶対にできない。

 

ならば意識的にコントロールするしかない。そのためには瞑想を取り入れてみるか、といったいくつかの方法を考えていたが、そんなときにふと気づいた

 

そもそも、僕は常に話が脱線しているわけではない。ある特定の状況では、脱線せずに集中できていたこともあると気づいた。

 

では、そのときに共通していた要素は何か。それを考えたとき、一つの答えに行き着いた。それがタイトルにある通り、「予習」だ。

 

今日は以下、その話を書いていく。

 

 

 

方位磁針たる存在。

 

しっかりとその日の授業の流れを組み立て、予習をしていると、無駄な話をすることが圧倒的に減る。理由は明白で、ロードマップがあると、脱線しようがないからだ。

 

白状すると、ここ最近は猛烈に忙しく、綿密な予習はできていなかった。心当たりとして、いの一番に浮かぶのはそのことだ。

 

「予習不足」は、その単元を教えるに際して、自分の理解度を知るためだけのものではない。だからこそ、それが欠けたせいで、脱線しやすくなっていたのではないか。

 

これは単なる忙しさの問題ではなく、自分の甘さだ。予習を軽んじて優先順位を間違えたからこそ起きていたエラーだと捉えた方が正しいだろう。

 

では、どうするべきか。答えはシンプルで、「改めて予習を徹底する」ことだ。具体的には、その日の授業について、あらかじめ伝えるべき内容を整理しておく。

 

授業は基本的に、集団授業であれば70分や45分の枠で行われるため、その枠の中で何を伝えるかさえ決めておけば、話の脱線は大幅に防げるだろう。

 

僕はもともと、なんだかんだでアドリブには強い方だと思っていたが、話のネタが無尽蔵に展開するという意味では、むしろ「強すぎる」のだろう。

 

ネタが多すぎて制御できないというのは、強みではなく弱点であり、課題に過ぎない。自分の強すぎる本能に振り回されているだけだ。

 

適度に、それこそ「蛇口をひねる」ように話をコントロールするためにも、予習を習慣化し、自分の話すべき内容を一本化し、スリム化する意識が殊更に重要だと認識した。

 

おそらく、これは他の人にはあまりない悩みかもしれない。しかし、僕にとっては深刻な課題であり、しっかり意識的に取り組むべきものだ。

 

予習の意義を「知識のインプット」ではなく、「話を脱線させないための手綱」として捉えるのは、新しい視点かもしれない。だからこそ、この気づきを共有しておきたい。

 

それでは、今日はこの辺で。

 

 

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