あるあるネタかどうかはわからないのだが、時折全く気乗りがせず、ついつい放置してしまう仕事(僕の場合は授業の予習)がある。
今目の前に置いてある大学入試の古典がその一つであり、予習しないと不安ではあるが、それでもめんどくささが勝っちゃうなぁと、そういうもやもやが募っている。
しかし、よく考えれば不思議だ。僕は元来チキンハートであり、準備はすればするほど手応えを得て、それによって安心していくタイプだと自負しているためである。
そんな僕が、準備に対し意欲が沸かないとは、どういうことなのだろうか。この原因について、せめて仮説を立てておかないと、不安が募って仕方がない。
この状態は、そのまま行ってもOKというサインなのだろうか。あるいは、準備が完全に不十分だということのサインなのかもしれない。
―そのためには、今のこの状況を言葉にしておき、そして実際にその授業が終わった後で振り返っておかないと、永遠に埒が明かない。
今日は未来の自分に向けて、この謎のメンタルを言葉にしておくという話である。
目の前の対象に抱いている感情とは。
なぜやる気が出ないのかを問う前に、目の前の教材についての現状を、まずは自覚しておくことから始めてみる。
そもそも論だが、実は予習そのものは済んでいる。実際に解いて、参考書を見ながら指導の内容も考えて、別の人の解説も、既に読んだところである。
ならばもう十分ではないかと自分でも思うのだが、実はその教材を基に、オンライン、つまりリモートで授業をすることになっている。
そして古典の授業をオンラインで行うなんてのは、実は人生初である。いわば未知の経験が僕を待っているようなものであり、不安が募る理由は明確っちゃ明確だ。
すると、仮説が立てられる。
予習に際し、しなければならないとぼんやり思いながらも、それに意欲が沸かないときは、自分の認識と、実際の感情の対象に、ズレがあるのではないか、というものだ。
例えば、僕は不安な気持ちを今どこかに感じているのだが、それは教材の内容理解に関してではなく、オンライン授業という形態そのものについてだとしたら、どうか。
となれば、今僕がやるべきことは、「オンラインで画像を表示したらどう見えるか」「PDFは映るか」「仕様が変わっていないか」といった項目の確認だ。
ということでさっき、アプリを立ち上げて実際の動作をあれこれと確認してみたのだが、そのうちに不安は完全に霧散していることに気が付いた。
なるほど、なるほど。これは結構興味深い観察になった。不安だが意欲が伴わないとき、少なくとも目の前のそれに不安感を抱いているわけではないのかもしれない。
もちろん、いくらでも自分の中に例外を求めることはできるが、ここで得た仮説は自分にとって新鮮だし、かつ盲点でもあったように感じる。
不安については、準備を重ねるのもイイし、情報を集めるのもイイし、割り切って無視して突っ込むのもイイが、対象を変えてみるのもイイのか。また武器が増えた。
ここに書いたことは非常に主観的で、どう考えても普遍的だとは思えないのだが、【意欲】や【不安】について悩む点がある人には、ヒントになっているかもしれない。
おまけ:実際に授業をやった手応えはどうだったのか。
とはいえ、実際に確認する前に観察を終えるのももったいない。だから、授業を終えた後、予習の完成度は実際どうだったのか、そこまで書いてみることにする。
授業前の仮説は、「予習そのものは済んでいたけど、オンライン授業そのもののシステム等に不安を抱いていた」というものだったが、それはどこまで合っていたか。
以下、答え合わせである。
今、授業が終わった。職場を閉めたうえでこそこそ書いているが、先述の僕の読みの正解の度合いは、ざっくり80%くらいであった。
というのも、説明しながら「あ、ここの解説難しいな・・」と少し詰まるところがあったからだ。ここを僕のメタが準備不足と感じていたという仮説も立てられる。
しかし、オンラインで古典を教えることがそもそも初めてであることから、予期しきれない部分が出るのもまた自然だと考えれば、気に病むほどではない。
今回得られたデータを基に、また別の予習の完成度を高めればいいだけである。
ということで、遠からず、近からずという自分の思考のクセがまた一つ発見できた、面白い内省でありましたとさ。
じゃ、今日はこの辺で。