精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【観察】の第一歩とは、まずその状態に長く身を置くことではないか。

今日は、「観察」について、また新しいことに思い至ったので、忘れないうちに思考の整理を兼ねて記事にしてみたいと思う。

 

きっかけは、以前から何度も読み返している『観察力の鍛え方』という一冊だ。内容はもちろんその文体も好きで、折に触れて何度も再読している数少ない本だ。

 

この読書を通じて、僕は「どうすれば“今この瞬間”に意識を置き、ありのままの世界を観ることができるのか」に強い関心を持つようになった

 

以来、仏教哲学を学んだり、体型的な方法を学んだうえで瞑想を試みたりと、いろいろなアプローチを模索してきた。


それ自体は確かに実感のある取り組みで、「こういうことか」と腑に落ちる瞬間は、今でもたまに訪れる。そういった地道な積み重ねには、前向きな充実感もある。

 

ただ、先日ふとしたことがきっかけで、「もしかして俺は、【観察力を鍛えることの順番】を間違えていたのではないか?」と、ふと思うようになっている

 

以下、その話を丁寧に書いていこう。

 

 

そもそも「観察」とは何かが、実体験として蓄積されているか?

 

昨日、キャンプに行っていた。一泊して、翌朝テントから出て椅子に座り、自分で挽いたコーヒーを片手に、芝生の上で山を見ながらぼんやり過ごしていた。

 

ふと足元に目をやると、たくさんのアリたちが、歩いては立ち止まり、時折触角を動かしては餌を探す、そのような仕草を繰り返していた。

 

特に何も考えずにぼーっとその様子を眺めていると、今度はたまたま、1匹のミミズが視界に入った。小さなミミズが、芝の間をくねくねと移動している。


「こんなの、アリからすれば格好の餌じゃないか」と思いつつも、例えば自分の手でアリの側に置くのも違う気がして、ただひたすら、”観察を続けた”。

 

このとき、自分の中には「こうなってほしい」「こうなるんじゃないか」という期待も予測もなかった。ただただ、無心で、見続けていた。


驚いたことに、ふと気づいて時計に目をやると、その時間は5分以上続いていたことがわかった。このとき、「今、自分は“観察”できていた」と、確かな実感があったのだ。

 

何も期待せず、判断もせず、思考もなく、ただ目の前にある事象を眺める―これこそが、”観察”なのだと、体験として学べたのだ

 

そして思い返すと、僕は“生き物の動き”を見ているときには、頭の中が自然と空になる傾向がある。今更だが、それ自体は割と無自覚であった。

 

たとえば自宅で飼っている淡水魚の水槽を眺めているとき。魚が水の中を泳ぐ様子を、横からぼんやりと見ていると、頭の中から徐々に思考が消えていく

 

チャプチャプと水が濾過される音だけが静かに響き、心が澄んで、整っていく感覚がある。肉体的な疲れが溜まらない限り、いくらでも見ていられるくらいだ。

 

これらを思い返しているとき、ハッとした。僕は、「今は観察ができた」と胸を張って言える経験が、そもそも不足していたのではないか。少なくとも意識的ではなかった。

 

つまり、観察“そのもの”を十分に理解・体験できていないからこそ、「この状態にたどり着きたい」という明確なイメージすら持てていなかったのではないか?

 

だからこそ、しばらくは今以上に方法論やを詰め込むのではなく、「自然と観察できる対象」を見つけ、意識的に観察という行為を見つめ直す必要があるのではないか


その対象に触れる中で、「観察とはこういう心のあり方だ」という感覚を、身体で覚えていく―そんな時間が、今は必要なのだと、改めて思えている。

 

たとえば、毎日5分間だけでも、意識的に水槽の魚を“ただ眺める”時間を取ってみる。
そんな小さな習慣が、自分の観察力の土台を育んでくれるのかもしれない。

 

まずはできることから、始めてみようと思う。ということで、今日はこの辺で。

 

 

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