僕はまだ34歳なのだが、不思議ともう、人生は半分終わったと思っている。それもあってか、僕は他人よりも、来し方を振り返る頻度が多いのではないか、と思っている。
子供の頃の僕、大人になってすぐの僕、そして今の僕。その時々を丁寧に紐解くことで、僕という人間が抱える哲学が、段々と見えてきやしないものか。
過去の自分の選択・言動の理由を振り返る。今の自分が塾講師を選んだ理由を振り返る。なぜを問いまくり、何かを結晶化させようと努める。
すると段々、僕という人間を突き動かすエネルギーの源泉みたいなものがあることが分かってきた。今までも色々書いたが、今回のはさらに始まり”に近いものだと思う。
すなわち、僕はただ、【知りたい】だけなのかもしれない。人生全てに一本の筋を通すキーワードがこれだとして、別に違和感は無い。
今日はそんな振り返り記事を書いてみよう。
この世は巨大なおもちゃ箱だ!
子供の頃、無意識に惹かれたものを思い出すと、NHKのドキュメンタリーと図鑑という2つのものが、思い出の奥底から取り出せる。
実は今でもそうなのだが、NHKの骨太なサイエンス系の番組が流れると、ワクワクしながら、目を輝かせながら、ずぅっとテレビ画面を見つめていた記憶がある。
宇宙、恐竜、古代生物、物理現象、海の中、昆虫の世界・・。その全てに僕は心を躍らせた。どれもこれも、”知らないもの”だった。そして僕は、”知りたかった”。
それは図鑑も同じだった。ページを一つめくれば、僕がまだ見たことのない生物の姿がたくさん載っていて、魚と昆虫のそれは、本当に破れるほど読み込んだ。
―この経験を経たうえで、僕は僕の性分に感謝なのだが、僕はこういった理科系の理式が増えれば増えるほど、自分は何も知らないことを悟るようになっていった。
そして僕は、その状況を歓迎した。なぜならそれは、この世界には尽きることのない、僕にとっての遊び道具があることが確約されたものだからだ。
例えば、今目の前にある草むらで虫取り網を振るえば、何が採れるのだろうか。田んぼを及ぶ毛むくじゃらの微生物は、名前をなんというのだろうか。
そんなことをずっと考えながら下校していた記憶がある。友達との会話は何一つ思い出せないのに、あの頃自分が足を踏み入れた草むらがあった場所は、逐一覚えている。
この世は「わからない」ことであふれている。そしてそれを「知る」ことは、僕にとって本当に最たる【快】である。僕はこのことを、中学卒業までは確実に抱いていた。
―ただその後は、高校生活・大学生活を経るうちに、”中途半端に”人の目を気にすることを覚えてしまったのもあり、僕自身の”好き”は完全に迷子になってしまった。
”まともで普通な”高校生・大学生は、恋愛にハマり、スポ―ツにハマり、髪型を整えることに興味を抱き、高級車に乗る自分を想像してワクワクするのだという。
正直、そう思おうとしてみた。そこに面白さを見出そうともしてみた。だが、ダメだった。最初から既に、「別に知りたくない事柄だ」と納得していたからである。
社会から求められる趣味・事柄にハマれない自分に、どこか劣等感を覚え続けている間に、僕は30歳になっていた。そしてその頃、僕は遂に、吹っ切れた。
きっかけは本当に色々ある。例えば【観察力の鍛え方】に出会ったこともそうだし、仏教哲学の面白さに気付けたのもそうだろう。
だが、花粉症は許容量を超えると突然発症するように、僕自身が心の奥から湧く声を拾い、従おうと心底誓えたのは、その声の集積が閾値を超えたからだと思っている。
「やっぱり、俺は、俺が知りたいと思ったことを、突き止めるのが好きなんだ!」といった風に。それはすなわち、社会から求められるオトナからの決別をも意味した。
いい年した大人は、わけのわからない釣り餌を試して何が釣れるか、いちいち実験しない。だが、僕はする。なぜならそれは、楽しいからだ。僕は知りたいからだ。
いい年した大人は、ドブでフナやコイを釣ることはない。だが、僕はする。なぜならそれは、楽しいからだ。どうすれば釣れるか知りたいからだ。
世間では彼女を作るのが良しとされる。家を買うのが良いとされる。子供は持たねばダメだと言われる。だが、僕はしない。なぜなら、そんな暮らしに興味はないからだ。
そういった状況下にある自分が何を思い、何を感じるか、僕は知りたいとは思わない。あまりにも自分の人生の軸から乖離した妄想に、”知りたいこと”は無いのだ。
こうやってバッサバッサと切っていくと、ただ社会(というよりメディア)からイイと言われている大半のことは、”僕にとって”どうでもいいものだと”わかって”きた。
そんな僕を「ヘンなヤツ」という人はいると思うけど、それに関して知りたいことは何一つない。その人の背景も、意図も、どうでもいい。だから、気にする必要が無い。
万一自分の中で揺さぶられるものがあった際は、それは僕の何かしらの価値観が傷つけられたと感じたということだ。ならばその価値観が何かは、確かに”知りたい”。
ただしその相手はどうでもいい。そいつは一端のホモ・サピエンス。それがわかれば十分だ。それ以上の興味を抱かない。知ったところで何も心が躍らない。
―ところで、この仕事を続けながら、今の僕は何が知りたいのだろうか。実を言うと、その答えはまだ、見つけられていない。でも、それを知りたいとは、強く思う。
それをもし見つけられたら、僕はまたすぐ次の問いを立てられるだろうか。それとも、知ったことを理由にこの仕事を辞す未来を選ぶのだろうか。
それは今の地点からは全く分からない。だが、知りたいという好奇心はワクワクを伴い、胸の奥で静かに熾火と化しているのを感じ取っている。
僕はただ、【知りたい】だけなのだ。そのために生きていると言っても良い。心も肉体も知識も、すべてはそのためのツールに過ぎない。心底そう思う。
僕は、人はみんな幸せになるために生まれてきた、なんてのより、人生なんて死ぬまでの暇つぶしと解釈する方を好む。その方がずっと、僕らしいからだ。
明日もまた、今日知らないことを知っている自分になっていることを願う。では今日はこの辺で。