今日は、僕にとっての「幸せ」について、なんとなく話してみたいと思う。テーマがテーマなので少し大げさに聞こえるが、実はとてもスケールの小さい話である。
ちょっと厨二くさく聞こえてしまうが、元々僕は昔から、「幸せ」という言葉の意味が、実はよく分かっていなかった。

辞書的な定義は理解できるが、それが具体的にどんな状態で、どんな感情を指すのかが、腑に落ちなかったのだ。
実際、「人生でこの瞬間こそ幸せだ、それ以外の言葉が見つからない」…と断言できる場面を、言われてみれば、僕は一度も経験したことがないように思う。
例えば、大学受験の合格は幸せだったかと言われると、それは「達成」と「安堵」が入り混じった感情だったと思う。強く「幸せ!!」とは別に思っていない。
美味しいものを食べれば「満足」。仲間たちとキャンプへ行けば「楽しい」。自分の感覚で言葉を当てると、どれも“幸せ”である必要がなかったのだ。
しかし、最近いろいろなnoteの記事を読んでいて気づいたのだが、「実は幸せがよく分からない」という人は、意外と多いようだった。
そして、その人たちが書いた言葉をヒントとしてあれこれ考えるうちに、段々と僕自身の「幸せの正体」が、最近少し見えてきている気がしている。
だから今日、それを忘れないうちに、ここへ言葉にしておこうと思う。
僕にとっての幸せは、”起こるもの”ではない。

多くの人が言う“幸せ”を考えてみると、それは、誰かの援助を得たり、自分のお金を使ったりして得られる、そんな類のものに見える。
極端な例を挙げれば、結婚式だ。世間ではあれこそ「幸せいっぱい」と表現されるし、あの場に列席しているときは、僕もためらいなく「幸せ”そうだな”」と口にできる。
だが、思考実験を行ってみて、ちょっとドライなことに気が付いた。僕は結婚式という場に参加するのは別に嫌いではないが、自分が開くとなると話が違うのだ。
その準備や掛かる費用を考えたとき、そのイベントから得られる感情面のリターンがどうにも釣り合わない。そう思っている自分が、透けて見えてしまった。
つまり、「世間で”これこそ幸せ”と言われているものをやること」自体が、僕にとっては別に幸せではないのだと、そのとき強く自覚したのだ。
と同時に、僕が感じる幸せとは、いわば”何も起きていない状態”なのではないかと、ふと閃いた。そしてこれは、結構正鵠を得ているように感じている。
どこまでも静かで、誰にも干渉されず、リスクがない状態。僕にとっての幸せは、徹底的に“静的なもの”であると捉え直すと、段々と腹落ち感が得られてきた。
この定義から考えれば、直近で唯一「幸せに近い」と感じた一幕がある。仕事が終わり、部屋でひとりアイスクリームを食べていた、あの時間だ。
退勤後ゆえに面倒な案件が飛んでくる心配もほぼなく、だからこそただ静かで、そして何の刺激もなく、何の通知も目に入らない、あの時間。
あの時間には、確かに「幸せ」という言葉を当てても違和感がなかった。少なくともここ数年で初めて、あれこそ幸せと思っても、何の引っかかりも感じない。
つまり僕にとっての幸せとは、完全に独りで居られて、それを何かに乱されるリスクからも切り離され、自分の好きなことを静かにしている時間のことだと言えるようだ。
これはなんと皮肉な話だろうか。実はそういう暮らしを、大学生の頃はほぼ毎日送れていたのだが、当時の僕は”幸せ”をほとんど感じていなかったのだ。
当時は、例えば彼女・学歴・資格・コミュ力といった、「世間が言う幸せ」を何一つ持っていないことへの焦りがあった。だから幸せではないと思い込んでいた。
しかし今振り返れば、むしろ当時の方が“幸せの総量”は圧倒的に多かった。仕事の連絡が飛んでくることはないし、今ほどネットが発達していないからこそ通知も少ない。
ゆえに誰かに監視されている感じもなかった。お金は無いが自由はあったし、部活動などの緩いコミュニティから、責任ある仕事を振られるリスクもほぼゼロだった。
家に帰ればゲームをし、学校へ行けば友人がいて、休日には部活に出かけ、少し稼げば旅行にも行ける。あの日々こそ、僕にとっての“とても分かりやすい幸せ”だった。
幸せとはなるものではなく気付くものだという有名な指摘があるが、自分がそれを全くできていなかったとは・・なんとも拍子抜けする話である。
僕の幸せとは、「どこまで平穏でいられるか」である。

僕はずっと、”幸せ”とは、もっとダイナミックで、かつ勝ち取って手に入れる特別なものだと、勘違いしていた。
しかし実際は、僕が感じる幸せは徹底して静かで、平和で、かつ誰にも邪魔されない時間そのものである。34歳になった今、それを理解し、非常にすっきりした。
恋愛、結婚、イベント、サプライズ。こうしたものに幸せを感じないのも当然だ。それらは人前に晒され、静けさが欠けている。そこには僕の“幸せの条件”がまったくない。
どこか偏屈でありながらも、自分の価値観には、きちんと一本筋が通っている。この性分、むしろありがたいことだと、強く思う。
ということで、今日はこの辺で。