今日は少し長くなるのだが、最近、人生そのものを意識的に見つめ直しているという話を書いてみようと思う。
「年がら年中そういうことを考えてそう」という印象を持たれるかもしれない。実際、否定はしない。ただ、ここ最近は特に、それが加速も深化もしている感じだ。
きっかけは、けんすう氏の『物語思考』を再読し始めたことにある。書かれているワークは全部やってから進む、という読み方なので、10日でまだ80ページくらいである。
実際に「なりたい自分/なっていたい自分」を100個書き出したし、それぞれを体現している人物もリストアップした。
さらに、その人たちの性格やキャラクターも分析し、さらに「この状況なら、その人はどう振る舞うか?」まで、ワークの一環として考えている。
そして今は、そこに自分の普段の言動を寄せていく、という段階に入っている。キャラを設定し、その通りに動かしていく、とのことだ。
特にこの作業をやっているときに、ある興味深い発見があった。一見何の関連も無い、それぞれの項目で憧れとした人物たちの間に、共通点が浮かび上がってきたのだ。
そして今、その共通点こそが、自分の人生の中心、つまり「軸」に据えるべきものになりうるのではないか、という納得感が出てきている。
今日はそれを、なるべく端的にまとめながら整理してみたい。
僕は「逆算で生きる」ことが根本的に合っていない。
結論から言うと、その共通点とは、彼ら・彼女らは今夢中になれるものに徹底して没頭した結果、今に繋がる道を開いていった、という点だ。
つまり、将来こうなっていたいという逆算から人生を組み立てていったのではなく、好きなことや夢中になれることに取り組んでいたら”そうなっていた”のだ。
そして僕もまた、「30年後にこうなっていたい」から逆算して、今はこれ、次はこれ、という生き方がどうにも好きではない。というか、僕の性質に全く合わない。
むしろ先に挙げたように、好奇心の爆発と目の前の事柄への没頭の連続を繰り返していく。僕はそういう人生に強い好意を持つし、自分もそうありたいと思う。
「未来の奴隷」みたいな生き方は、嫌だ。
たとえば積立NISAみたいに、「10年後20年後に備えて、着実に積み上げていこう」という考え方がある。合理的だし、否定する気もない。やる人はやればいいと思う。
ただ、僕はあれを魅力的に感じない。10年後20年後に日本円がどうなっているかも分からない。極端な話、価値の軸が変わっている可能性だってある。
ビットコインだの何だのを持ち出すまでもなく、「常識」がひっくり返ることは普通に起こりうる。だから僕は「現金を貯め込むこと」自体に、あまり興味がない。
もちろん無駄遣いをしない結果としてお金が溜まるのは良い。だが、溜めたものをただ持ち続けるより、人生を豊かにするものと交換しておく方がいいと思ってしまう。
その延長で言えば、「金持ちが宝石を買う」理由も、最近は前より理解できるようになった。カネを持つより、価値が崩れにくい形に変えてしまう、という発想には納得だ。
やはり僕は、「不確かで曖昧な未来のために、今を犠牲にする」みたいな生き方が、すごく嫌なのだ。未来の奴隷になるのなんて、願い下げである。
僕が人生の計画を立てるとしても、最長で2年くらいのスパンだ。それ以上の時間軸になると、正直あまり興味がない。考えても意味がないとさえ、思っている。
感覚としては将棋の対局に近い。現実という対局相手がこの手を打ってきたから、自分はこう返す。その繰り返しで人生が進んでいく。僕はそう捉えている。
そして盤面として、「こういう形に展開しそうだな」という、いわば潮目が見えてきたら、そのときはそこへ着地するように手を選べばいい。
だが、最初から「未来はこう」と決めて、そのために今を生きるのは、僕には無理だ。同じことを繰り返している感じがするが、それくらい強く受け入れられないらしい。
・・・冷静に振り返ると、そもそも僕は、ずっとそうだった。大学1年の頃に、大学4年の自分を思い描いていたかというと、1ミリもない。
さらに言えば、高校1年の頃に、高校3年の自分を考えていたかというと、それもない。見ていたのは常に「今」か、せいぜい「数ヶ月後」である。
多分、特性として遠い未来を想像するのが苦手、という面もあるのだろう。だがそれ以上に、単純に興味がない。
実際、『物語思考』のワークで「したいこと100個」を作るのに、大変な時間がかかった。5日考えて、絞り出して、どうでもいい夢まで含めて、ようやく届いたほどだ。
でも、そのリストをよく見ると、書いてあることは結局、「今やっていること」か「今の生き方のままなら、そのうち勝手に目指したくなること」ばかりだった。
たとえば「三島由紀夫の作品を全部読む」みたいなものも入っているが、これは「今の自分」から自然に伸びていけば、いずれ到来する未来である。
一貫して、僕は未来から見た今に興味を抱けない。この哲学は、自分のものであるはずなのに、何か強く心惹かれるような魅力を感じている。
人生に壮大な意味はいらない。
「人生に意味はあるのか」という問いの答えは、自分の中ではっきりしている。まず僕は、「人生には壮大な意味がある」みたいな解釈が、あまり好きではない。
むしろ、「人生なんて死ぬまでの暇つぶし」くらいの感覚の方がしっくりくる。だからこそ、「暇つぶしのために10年後20年後を熟考してどうするのか」と思ってしまう。
極端な比喩で言えば、プロ野球選手が「引退後」を見据えて現役である今のプレーを変えるわけがないだろう、という話である。
そもそも論、現在とは、想像だにできないほどの膨大な因数が掛け合わせることによって出力されたもの、ともいえる。カオス理論よりカオスなのが今なのだ。
例えばコロナ禍で、世界が丸ごと止まるような事態は、誰も想像できなかっただろう。未来を「わかった気になって」備えること自体が、僕にはかなり不自然に感じる。
だから僕は、仏教の曼荼羅の考え方が好きだ。中心があるとも言えるし、ないとも言える。自分が中心とも言えるし、そうではないとも言える。
そういう、過剰な当事者意識を持たない感覚の方が、僕には合っている。
「人生の目標」を決めるより、「感性」を守りたい。
今回、人生を丸ごと振り返ってみて分かったことがある。僕には、「こういう人生を目指す」という強烈な像が、そもそもほとんどない。
ただし「こう生きたい」という“姿勢”はある。僕が憧れる人たちを並べてみると、結局みんな、今できることに夢中で取り組んだ結果として、そこに到達した人たちだった。
つまり僕も、そういう生き方しかできないのだと思う。そして、それでいいのだと思えるようになった。
今さら未来をがっつり決めて、計画的に人生を歩み直す…なんてことに、僕は向いていない。34歳だから可能性がない、という話ではない。
むしろ逆で、可能性なんて無限にあるからこそ、未来を固定することに意味を感じない。不確かで曖昧であることに耐えられないから、未来に備える人が多い気がする。
だから僕がやるべきは、青い鳥を追うことではなく、自分が何にならワクワクしたり没頭したりできるかを見抜く感性を磨き、無垢に保ち、観察力を鍛えることだ。
膨大なインプットに触れ、心が引っかかる瞬間を待つ。引っかかったら、全身で取りに行く。今の僕が「ありたい人生」の捉え方は、多分これである。
未来を手放したら、途端に今が楽しくなってきた気がするのだが、これは多分気のせいじゃないんだろなと、そんなことを思っている。
では今日はこの辺で。