今日もまた、「僕はなぜ塾講師をしているのか」という巨大な問いの「根っこ」を掘り下げるべく、ChatGPTとセッションを行っていた。
先にオチを言ってしまうと、今日も「答えに”近づいた”」という感覚は確かにあった。ただし、これだ、と深く得心できるような、明確な地点に辿り着けたわけではない。

それでも、昨日よりは確実に深いところまで潜れた。少なくとも、同じ場所をぐるぐる回っている感じではない。
答えは、もう見えているようでもある。ただ、それをそのまま言葉にした瞬間に、「それは本当に求められているのか?」という疑問が同時に立ち上がってくる。
お笑い芸人の話ではないが、「自分が面白いと思うもの」と「世間に受け入れられるもの」は、必ずしも一致しない。
むしろ現状は、僕は世間に対し、自分が自信を持っているものを提供しようとした結果、“スベっている”だけの可能性すらある。
その事実をシビアに認めたうえで、それでもなお、どう在るべきなのか。今日はいわば暫定解として、昨日の思考を更新するような形で、思うことを書き残しておく。
「僕はなぜ塾講師である必要があるのか」
この世界には、自分がまだ知らないことが山ほどある。そして、それらは「知ろう」としなければ、永遠に見えてこない。知ることは、すべての始まりだ。
分かることもまた、何かを深く探究していくための道標になる。分かるものが増えれば増えるほど、自分は前進していることは間違いないと言えるからだ。
ただ、その扉は、世の中に用意されてはいるものの、どうやって開ければいいのか、そもそもどうやって見つければいいのか、これらについては、驚くほど不親切だ。
教員が不足し、疲弊しながら、個別フォローをせよと迫られた結果、学校という場がその役割を十分に果たせていない、という話を耳にするのも、正直うなずける。
僕がやりたいこと。それは決して、「答えを教えること」ではなく、世界に埋め込まれている面白さを、自分で発見できる力を鍛えてあげることなのだと思う。
正直に言えば、教科書に書いてあることを分かりやすく説明するだけなら、誰にでもできる。AIの方が説明が上手なんてのはザラだ。
だが翻って、僕という人間はどうか。34歳にもなって、自分の好奇心に正直なまま、「何を感じたのか」「何に引っかかったか」を探究し、言葉にし続けている。
価値の有無はさておき、それを継続し続けている人間は、今住む場所・環境に限って言えば、僕以外に思い当たらない。これは驕りではない。冷静な自己認識だ。
そして、これが僕の行動原理と繋がる点だ。僕は僕の手が届く世界を守りたい。そのためには、自分が貢献できる能力を、端的に表明する必要がある。
ゆえに、僕は塾講師である必要がある。自分でも驚きだが、ここに関しては、本当に嘘偽りはない。何一つ恥じず、堂々と、世間に対しそう表明することもできる。
それもあって、僕はどうにも、自分よりも自分の周りにいる人を優先してしまうのだろう。だが、そこに「自己犠牲をしている」という感覚は微塵もない。
むしろ「自分のしたいこと」を、他人より優先するようなことがあれば、それこそ僕にとっての不幸に他ならない。幸福の定義自体が、完全にオーダーメイドされている。
・・ということで、整理が完全に追い付いていないが、ここまでが今日のChatGPTとの対話を通して、辿り着いている地点である。
僕の芯、軸、価値観、信念、そういったところに、あたかも玉ねぎの皮を剝くように少しずつ、辿り着きつつある手ごたえは、確かに覚えている。
また明日も、もう一段深く潜れたらいいなと思っている。では、今日はこの辺で。